鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

斎藤真一さんの『明治吉原細見記』について その3

2009-07-11 05:38:58 | Weblog
和田芳恵さんが、「樋口一葉が生き、その作品で取りあつかわれた明治中期までは、風俗、人情が、ほとんど江戸時代のままであった」と記すように、一葉のまわりには幕末からの生き残りの人々がたくさんいて、江戸時代の風俗や人情がそのままに残っていました。それは吉原遊廓においても同様でした。「遊里」としてのふるいしきたりがそのままに残っていたと思われる。

 しかし一葉が生きた時代は、一方で「明治維新で、旧いものが、すべて価値を失」い、かつ「この新興勢力の破壊力は強烈で、暴力的なもの」であり、一葉も「まともにこの波をかぶり、新旧の思想の軋轢(あつれき)のなかで」生き抜かざるを得ませんでした。

 そのような大きな変動の中で生き抜かざるをえなかったのは、もちろん一葉に限ったことではなく、幕末・明治維新期に生まれたほとんどの人々がそうであり、その中で深刻な人生の浮沈を味わわざるを得ませんでした。

 一葉が入谷龍泉寺町で生活をしていた時、「お歯ぐろどぶ」を隔てて目と鼻の先にある吉原遊廓に生きていた遊女たちの中にも、そういった大きな変動の中で一家が深刻な浮沈を味わい、その結果身売りされてきた女性がたくさんいました。

 斎藤真一さんの養祖母である「久野おばさん」も、そういった女性たちの一人でした。

 内田久野は、もともとは備前岡山藩(池田氏)の士族の二女であったのが(つまり武家出身)、父が事業に失敗して自害し、母が再婚した相手(これも士族出身)も事業に失敗して財を失うという状況の中で、明治20年(1887年)の春に吉原に身売りされることになったのです。

 こういう久野のような境遇で吉原の遊女になった女性が数多くいたようであることを、私はこの『明治吉原細見記』で知ることができました。

 たとえば、稲本楼の「白露」は明治5年(1872年)東京生まれですが、「しかるべき名家に生まれた絶世の美人」でした。

 「金山」は明治2年(1869年)に幕臣の二女として生まれました。

 「遊霧」は、明治5年(1872年)滋賀県生まれで、父は元彦根藩士でした。

 宝来楼の「阿古女」は、明治7年(1874年)に、元静岡藩士の長女として生まれました。

 吉原芸者が東京出身の者が多かったのに対して、遊女の方は地方出身の者が多かったようだ。遊女たちの出身地がまとめてありますが、多いところから挙げると、新潟・東京・岐阜・愛知・山形・茨城・三重・福島・群馬…といった順位でした。

 幕末・維新期のたいへんな変動の中で、人生の浮沈にあえいでいた人たちは、吉原遊廓の遊女たちにとどまらず、一葉の身近なところにも数多くいたようです。

 たとえば、「よもきふにつ記」の明治25年〔1892年〕12月28日の記述。

 この日、一葉は人力車に乗って、駿河台の伊東夏子の家から本両替町の書籍会社に赴き、「暁月夜」38枚の原稿料11円40銭を受け取りました。

 午後より師である中島歌子の家にお歳暮に赴き、その歌子の依頼で「小出君」にお歳暮を持っていった帰り、一葉は、当時小石川区柳町に住んでいた稲葉こう(鑛)を訪ねています。

 立ち寄ったのは、「暁月夜」の原稿料が10円ほどと思っていたところが、11円40銭と余分にもらったから。

 「いでや嘉(よろこ)びは諸共(もろとも)に」ということで、一葉がまず頭に浮かべたのは「稲葉こう」という女性であったのです。

 この「稲葉こう」という女性はどういう人か。

 一葉の母多喜(たき=あやめ)は、樋口大吉とともに故郷の中萩原村を出奔し、身重のまま江戸に出てきますが、まもなく生まれた長女ふじは里子に出して、湯島三丁目の二千五百石の旗本稲葉大膳のもとへ、その娘おこうの乳母として奉公に出ることになりました。この稲葉大膳の娘おこうが、「稲葉こう」でした。

 この稲葉家というのは、三代将軍家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)の主人であった「稲葉様」の分家であり、きわめて由緒ある家柄(旗本)でした。

 この稲葉大膳の娘おこうの乳母としてあやめが稲葉家に入り、その給金が樋口家の家計の足しになったわけですが、おこうは従って、一葉にとっては親類ではないが、母たき(あやめ)の奉公先の娘であり、また同時に乳姉妹の間柄(長女「ふじ」も)でした。

 日記にも、「昔しは我れも睦(むつ)ひし人」とあり、また「理を押せは五本の指の血筋ならねとさりとておなし乳房にすかりし身の言ハゝ姉ともいふへき」人である、との記されている女性でした。

 当時、稲葉こうは、小石川区柳町の裏長屋に住んでいました。主人は稲葉寛(ひろし)という人で、当時は零落した果てに人力車夫をやっていたらしい。

 稲葉家は、かつては湯島三丁目に居屋敷を持ち、巣鴨に下屋敷、本所亀戸(ほんじょかめいど)十間川に抱え屋敷を持つ大身の旗本で、おこうも、かつては「三千石の姫」と呼ばれて「白き肌に綾羅を断たざりし人」でしたが、今は、柳町の裏長屋に、髪は枯れ野のすすきのように油気もなく、袖なしの羽織をみすぼらしげに着て、うつむき加減に、訪れた一葉に茶をすすめました。

 一葉が部屋を見回すと、畳は六畳ばかりで、あちこちすり切れてまるでわらごみのよう。障子は一箇所も紙の続いているところはなく(つまり破れ放題)、昔の「お姫さま」時代の形見として残るものは何もなく、夜具や蒲団もないようだし、手道具もないような状態。あさましき形の火桶に土瓶がかけてあるばかり。

 主人の寛は、仕事に出るところだということで、筒袖の法被(はっぴ)を着て、寒そうにあんかを抱いて夜食の膳に向かっているところ。

 息子の「正朔君」はわずかに7歳。一葉が手提げてきたお土産を、もみじのような小さな手に喜び持って、少しも手放さない。

 おこうに、「御仏前にご覧に入れなさい」と言われて、やっと仏壇めいたところにそのお土産を供えました。

 一葉は、このおこうにお金を渡し、励ましの言葉を言って長屋の外に出ましたが、出た大通りはすでに暗くなっており、冷たい夕風が袂(たもと)を吹き抜けていきました。

 かつては三千石(実は二千五百石)の旗本の「お姫さま」が、今は、小石川柳町の裏長屋に住み、零落した生活をしている姿に一葉は深い感慨に浸りますが、「おこう」ほどではないけれども、それは実は自分の現在の姿にも重なるものでした。

 このようなおこうや自分の現在の境遇は、まかり間違えば、吉原遊廓の遊女たちの境遇と、いわば紙一重のものだ(つまり、自分だっていつその境遇に落ち込んだかわからない)、という切実な認識なり自覚が、下谷龍泉町時代の一葉には生まれたのではないだろうか。

 下谷龍泉寺町の駄菓子屋で、さまざまな人たちとの接触の中から、一葉は吉原遊廓の遊女たちの情報をこまめに集積していったに違いない。

 一葉自身は吉原遊廓内に足を踏み入れたことはなかったように思われますが、母の「たき」は確かに吉原遊廓に足を踏み入れています。

 大門を入った仲之町の通りの左側にあった、引手茶屋「伊勢久」との関係ですが、このつながりの中で、一葉一家は丸山福山町に転居しているらしい。

 そのことについては、次回に触れてみたいと思います。


 続く


○参考文献
・『明治吉原細見記』斎藤真一(河出書房新社)
・『現代日本の文学Ⅰ 二葉亭四迷 樋口一葉』(学研)
・『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)
・『一葉の日記』和田芳恵(講談社文芸文庫/講談社)
・『甲州文人往来図』福岡哲司(山梨ふるさと文庫)
・『続樋口一葉と甲州』荻原留則(山梨ふるさと文庫)


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