鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.7月取材旅行「神崎~佐原~津宮」 その3

2011-07-15 04:08:43 | Weblog
 「↑ 香取11km 銚子50km」の道路標示を見て、香取までおよそ3時間を念頭に、炎暑のもと、利根川堤防上を進みます。頭には首の後ろを覆う水を含んだ覆いのある帽子を被り、リュックにはペットボトルと栄養ドリンク、合わせて4本を入れてあります。首のまわりには登山用の長い汗拭きタオルを巻いています。すべて熱中症対策。堤防上には樹木はいっさい植わってなく、したがって日陰はほとんどありません。

 ちょうど除草作業中ということもあって、左手の堤防斜面はほとんど刈り取られています。除草作業中の草刈り機を持った作業員の集団を見掛けはするものの、堤防上を歩いている人としては、近くの人で犬の散歩をしている人やウォーキングをしている人がわずかばかりいましたが、私のような恰好をした人と出会うことはまったくありません。サイクリングをして黙々と走り去っていく人には数人出会いました。

 「関東ふれあいの道 水郷大橋6.0KM 神崎神社2.7KM」の案内標示を見たのが10:46。その地点から上流を振り返ってみると、神崎神社のある丘陵が、利根川の流れの向こうに一つの独立した島のように見えました。上流からそのように見えたのと同様に、下流から眺めてもそのように見えるのです。利根川航行上、古来から一つの目印となったであろう丘陵であることがよくわかります。神崎神社はその丘陵の上に鎮座しています。

 香取市域へと入ったのは、それからまもなくの10:52。

 「多田島」の地名標示を見てしばらく進んだところの水門のところで、日陰をさがして小憩。右手前方の河原の草むらの中にある樹木の繁りの中から、うぐいすのきれいな鳴き声が聞こえてきます。その音色をしばらく聴きながら、顔の汗を拭い、ふたたび堤防上に上がって道を進みます。

 山歩きもそうですが、単調な道で、歩くにはやや退屈な道の場合は、私は2000歩を一つの目安として小憩をとることにしています。つまり歩数を指で数えていくわけですが、2000歩になったら小憩をとってペットボトルの水分をとるというのを楽しみに歩くのです。それを3回繰り返すと6000歩となり、6000歩となったところで長めの休憩を取ります。それを繰り返していくのですが、これのいいところは、特に山登りの時。距離よりも歩数を稼ぐというところに意識が向くからです。早く2000歩になれば、小憩しておいしい水分をとることができるから、それを励みに歩数を稼ぐことになる。大股であるくことなく、小幅で歩くことになり、これが山登りの疲れを軽減することになるのです。

 若い時は力にまかせて大股で歩き距離を稼ごうとしたものですが、それは実は、疲労のたまりやすい登り方であったのです。急な山道であればあるほど、小幅でよちよちと登っていくのが理想的な登り方であり、疲れをためません。山歩きをしているベテラン高齢者の方の歩き方を見てみると、だいたいみなそのような歩き方になっています。小憩の楽しみのために「歩数を稼ぐ」という歩き方が、山登りには一番いいのです。

 それを応用して、平地であるから歩幅は大きいままですが、100歩で指を折りながら、2000歩を一区切りとして歩いていきます。

 「水郷大橋」の向こうに、半島のように延びる丘陵が見えてきたのが12時少し前。「水郷大橋」の先で、利根川が左へとカーブし、そのカーブしているところへ丘陵が突き出していることがわかります。突き出した丘陵があるために、利根川は左へと大きくカーブしているといった方が正確かも知れません。

 津宮(つのみや)や香取神社は、神崎河岸や神崎神社などの例から察してみても、その丘陵の突端付近や丘陵部にあるように思われました。


 続く


○参考文献
・『図説 川の上の近代 ─通運丸と関東の蒸気船交通史』川蒸気合同展実行委員会編(江東区中川船番所資料館+物流博物館+吉岡まちかど博物館)


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