鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2010年夏の取材旅行「高知市および高知市周辺」 大豊町大杉その1

2010-08-30 07:12:19 | Weblog
 前回は明石海峡大橋から淡路島を経て徳島県に入り、兆民の「阿土紀游」の行路にしたがって、阿波南部から土佐東部へと入っていきましたが、今回は、瀬戸大橋を渡って香川県に入り、高知自動車道で高知市を目指しました。

 今回持参したのは、兆民の「土佐紀游」(『中江兆民全集⑪』所収)のコピー。

 兆民は明治21年(1888年)の4月15日の昼過ぎに、大阪の梅田停車場を出発して神戸停車場に向かいました。そして翌16日の夕刻16:30に、神戸港を汽船「出雲丸」で出港し、翌17日、高知の浦戸湾に入港。故郷高知城下の自由民権家たちと交わり、4月下旬にはふたたび汽船「出雲丸」に乗り込んで浦戸湾を出港。神戸を経て大阪の「東雲(しののめ)新聞社」に戻りました。

 およそ2週間の旅(帰郷)をしているのですが、その旅の模様を簡潔にまとめて『東雲新聞社』に送り、それが紙上に掲載されたのが「土佐紀游」。

 ちなみに、この年(明治21年)の兆民は旅行を楽しんでおり、3月には「奈良紀游」、4月には「土佐紀游」、5月には「阿讃紀游」、そして8月には「阿土紀游」を『東雲新聞』紙上に掲載しています。

 前回の取材旅行は、「阿土紀游」の兆民の足跡をたどってみたわけですが、その旅に兆民が出立したのは7月18日で、この「土佐紀游」に出立した日からおよそ3ヶ月後のこと。

 この年、兆民は春と夏の2度、郷里高知へと向かっていることになります。

 前回、途中で訪ねた赤岡町は、明治15年(1882年)の10月19日、海南自由党魚漁大懇親会が、赤岡浜を舞台に行われたところですが、その大懇親会に、出版事業の同志を募集する目的で北山(四国山脈)越えで高知に帰郷していた中江兆民も参加しています。

 その帰郷から6年後の明治21年、兆民は春と夏の2度、帰郷をしているのです。

 兆民の紀行文は、以上のほかに明治24年(1891年)の「東京より北海道に至るの記」と「西海岸にての感覚」というのがあります(『中江兆民全集⑬』所収)。

 兆民は旅を好みましたが、紀行文は少ない。旅を好んだものの、紀行文を残すほどに旅をゆっくりと楽しんだ機会は数えるほどであったように思われます。

 今回の取材旅行は、自由民権記念館や図書館で調べ物をするのが主目的でしたが、「土佐紀游」のコピーを携帯し、それに出てくるところを部分的ながら歩いてみることにしました。

 1日目の夜は車中泊と決め、予定では「道の駅大杉」というところで車を停める予定でしたが、高知自動車道の「立川PA」で車を停めたところ、停車中の車が少ないことと、いったん高速道路をおりることが面倒なため、そこで車中泊をすることに決めました。

 しかし、夜間、静かであったPAに長距離トラックが1台入って来て、クーラーを効かして仮眠をするためにエンジンをかけっぱなしにしているその音が、ほんそばで耳についたために、予定通りに「道の駅大杉」へと車を走らせ、そこで車中泊を継続することにしました。

 それが、大豊町大杉で「日本一の大杉」と出会い、また美空ひばりの「歌碑」と出会い、また大変面白い「人との出会い」を経験することにつながりました。


 続く


○参考文献
・『中江兆民全集⑪』「土佐紀游」(岩波書店)


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