鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-相州四か宿  その4

2017-05-27 06:41:56 | Weblog

 

 勝瀬橋を渡って突き当りを左折すると両側にホテルがあり、その通りの突き当たり手前を右折すると道が相模湖を左下にしてまっすぐに続いています。

 その手前の突き当たったところの奥に古いコンクリートの構造物が2つ並んでいるので近寄ってみると、それは旧勝瀬橋の橋脚で、その構造から吊り橋であったことがわかります。

 そこから対岸を眺めてみるとコンクリートの旧勝瀬橋の土台のようなものが見えるから、旧勝瀬橋はここと対岸を結ぶものであったことがわかります。

 かつてこの下は「丹田前の渡し」があったところであるから、相模ダムによって出来た相模湖を渡る橋としてこの橋が出来たものであることがわかります。勝瀬集落があった日連(ひづれ)村と吉野の集落とを結ぶもの。

 それが老朽化したことなどにより新しく造られた橋が現在の勝瀬橋。

 道を東方向へと進むと突き当りに広場があり、その右側、つまり山側に右から「鳳勝寺跡」の標柱、「紀念碑」と刻まれた大きな石碑、「この湖底にかつて勝瀬あり祖先の霊をなぐさめふるさとをしのぶ 神奈川県知事長洲一二」と刻まれた石碑、「勝瀬 ふる里の碑」と刻まれた石碑が並んでいました。

 背後(南側)は山の深い緑。

 正面(北側)には相模湖の湖面が静かに広がっています。

 対岸の河岸段丘の上には人家が並んでいるのが見えますが、ここには国道20号が東西に走っているはず。その上にわずかながら中央道の高架も見える。

 対岸の右端がかつての与瀬宿にあたり、左手がかつての吉野宿にあたる。

 甲州街道の本道は、その対岸の山の中ほどを曲折し、上下しながら続いていることになります。

 ここはかつて勝瀬を拓いたという僧侶(法泉和尚)が開いた曹洞宗鳳勝寺があったところ。

 おそらく勝瀬の集落から坂道や石段を上がってくるとここに鳳勝寺があり、また右隣には八坂神社もありました。

 八坂神社には回し舞台もあったから、ここでは村の歌舞伎のようなものや旅芸人の芝居などが行われていたものと思われます。

 お祭りや仏事の際には村人で賑わったこともある場所であったでしょう。

 眼下には勝瀬の集落や田畑、蛇行する相模川の流れが見えたに違いない。

 この広場はあまり訪れる人もない様子で、湖面を望む奥まったところにひっそりと石碑だけが並んでいます。

 この勝瀬地区の全景については、現在の相模ダム近くにある嵐山の頂きから見下ろした写真があるのを、小原本陣近くの「相模原市立小原の郷」で知りました。

 「與瀬附近名勝 北相嵐山(間ノ山)頂上ヨリ相模川岩戸山ヲ距テ西方三國山方面ヲ望ム」がそれ。

 写真真ん中に相模川に突き出すようにある平地が勝瀬地区。

 その勝瀬地区の右端(北側)近くに吊り橋の「二瀬越橋」が架かっています。ここがかつて「勝瀬の渡し」のあったところ。

 勝瀬地区の西側には「丹田前の渡し」があるはずであり、そこを上がって行けば吉野。

 手前の「二瀬越橋」を上がって行けば与瀬。

 写真右端手前に与瀬の集落が写っています。これが現在のJR相模湖駅周辺。

 相模ダムが出来た場所は、写真なかほど下に見える道路の奥(さらに下、つまり北東寄り)になります。

 勝瀬の集落と与瀬および吉野のあたりの、湖底に沈む前の風景の全貌がよくわかる貴重な写真です。

 

  続く

 

〇参考文献

・『相模湖町史』(相模湖町)



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