安政七年(1860年)一月十九日は快晴。
しかし、午後三時五十分に浦賀を出港してまもなく、太平洋の冬の激浪が船を襲います。
副使の木村摂津守喜毅(よしたけ・1830~1901) や艦長格の勝麟太郎(海舟・1823~1899・坂本龍馬の恩師・後、小栗忠順らが進める幕府中心の統一国家構想に反対し、幕府が政権を朝廷に返上した上での雄藩連合による国家統一を構想する・後年、中江兆民がかなり親しい接触を持つ)、その他の日本人士官や水夫たち(総勢96名)も船酔いに苦しめられます。
日本人士官の中で、船酔いをしなかったのは、測量方の小野友五郎(1817~1898)、運用方の浜口興右衛門、そして万次郎の三人だけだったとのこと。
この咸臨丸には、遭難したアメリカ測量船フェニモア・クーパー号の艦長であったクーパー海軍大尉以下十一名が横浜から乗り組んでいます(彼らの通弁方として、万次郎が乗り込むことになった)が、彼らは、船酔いで倒れた日本人に代わって、咸臨丸の操船を行うことになりました。
激しい風雨のために後方マストの帆が破られたりする状況の中で、万次郎は徹夜を続けて働くこともありましたが、ブルック大尉やスミス(操舵手)らアメリカ人と、昔を思い出して話をしたり、唄(おそらく彼が好きであったスティーブン・コリンズ・フォスター〔1826~1864〕の曲)を歌ったりして余裕のあるところを見せています。
捕鯨船に乗って長い航海を経験してきたことが、彼の余裕を支えています。
万次郎は、初めて夜直をした時に、水夫たち(塩飽島や長崎出身の水夫がほとんど)にマストに登ることを命じますが、水夫と対立し、水夫たちから「帆桁に吊るすぞ」と脅(おど)されたりしています。
また、ブルックから、士官と水夫の当直制度、水夫の配置について指示を受け、そのために奔走しています。
ブルックらアメリカ人と士官や水夫たち日本人の間に入って、通訳者である万次郎は相当に苦心したはずです。
万次郎の奔走により、当直制度は二月二日に確立しています。
この航海の中で、ブルック大尉と万次郎の間には、厚い信頼関係と深い友情が生まれます。
ブルックの万次郎評を、いくつか挙げてみると、
・万次郎は私が今まで会った人のうちで、最も優れた人物である。彼は『ボーディッチの航海書』を日本語に訳した。
・万次郎は冒険心に富んだ男で、私は彼の生涯の主な出来事を直接聞き出したいと思っている。彼は非常に話好きである。私には万次郎が誰よりも日本の開国に貢献した人物のように思われた。
・万次郎のみが、日本海軍の改革が必要なことを知っている。
・万次郎は豚肉を炭火で焼いたのが好きだ。
二月二十四日、サンフランシスコに近づくと、勝は、サンフランシスコ入港の指揮を万次郎に一任。万次郎が、事実上の艦長になります。
日本人の士官や水夫たちは、万次郎の卓越した航海術の力を認めざるをえなかったわけです。
二月二十六日、快晴。明け方、朝もやの中にアメリカ大陸の山々が見えてきます。
午前十時に、水先案内船が近寄り、二人の水先案内人が乗り込みます。
やがて咸臨丸はサンフランシスコの港に入り、午後一時にヴァレーホ波止場に投錨。
ブルック、佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、万次郎らは、第九埠頭より上陸し、アメリカ側とこれからのことについて打ち合わせをします。
翌日、木村、勝、小野友五郎、万次郎らが上陸し、インターナショナル・ホテル(五階建て・部屋数136ほど)に向かいます。
万次郎は、ほかのメンバーと、リンコン・ヒルに登ってサンフランシスコの市街や港を見下ろしたり、市街の散歩をしたり、歓迎会において木村摂津守の通訳をしたりしています。
三月三日、咸臨丸一行は、船の修理のためサンフランシスコを離れて、サクラメント川の下流、メア・アイランドの海軍造船所へ向かいます。
三月十五日、サンフランシスコに赴いていた万次郎と福沢諭吉(彼を始め多くの士官たちは、万次郎が翻訳した英会話書『英米対話捷径』を手にしています)は、書店でウェブスター編の『英語辞典縮刷版』を購入(万次郎は二冊〔この一冊を、万次郎は細川潤次郎に贈ります〕、福沢は一冊)。その書店の主人は、日本人の万次郎が非常に達者な英語を話すので、大いに驚いたというエピソードが残っています。
閏三月十二日、咸臨丸の蒸気機関が動き出し、午前十時にメア・アイランドを出港。午後一時にサンフランシスコに入港。
閏三月十九日、午前九時十五分前に、咸臨丸はサンフランシスコを出港し、日本に向かいます。
この一ヶ月余の滞在中に、万次郎は、ダゲレオタイプの写真機、ウィルソン社製のミシン、アコーディオン、書籍類(『図説米国海軍史』『図説米国史』『代数学原論』『物理学入門』『機械工学原理』など、かなり難しそうな本)を購入しています。
四月四日、咸臨丸は、ハワイのホノルルに入港。この時、万次郎はかつて世話になったデーモン牧師を訪ねます。
そして五月六日、浦賀・横浜に寄った後、深夜午後十時二十分、品川沖に投錨します。
さて、今日はここまでにします。
さらに続きがあるのですが、それはまたの機会ということで。
鮎川俊介
しかし、午後三時五十分に浦賀を出港してまもなく、太平洋の冬の激浪が船を襲います。
副使の木村摂津守喜毅(よしたけ・1830~1901) や艦長格の勝麟太郎(海舟・1823~1899・坂本龍馬の恩師・後、小栗忠順らが進める幕府中心の統一国家構想に反対し、幕府が政権を朝廷に返上した上での雄藩連合による国家統一を構想する・後年、中江兆民がかなり親しい接触を持つ)、その他の日本人士官や水夫たち(総勢96名)も船酔いに苦しめられます。
日本人士官の中で、船酔いをしなかったのは、測量方の小野友五郎(1817~1898)、運用方の浜口興右衛門、そして万次郎の三人だけだったとのこと。
この咸臨丸には、遭難したアメリカ測量船フェニモア・クーパー号の艦長であったクーパー海軍大尉以下十一名が横浜から乗り組んでいます(彼らの通弁方として、万次郎が乗り込むことになった)が、彼らは、船酔いで倒れた日本人に代わって、咸臨丸の操船を行うことになりました。
激しい風雨のために後方マストの帆が破られたりする状況の中で、万次郎は徹夜を続けて働くこともありましたが、ブルック大尉やスミス(操舵手)らアメリカ人と、昔を思い出して話をしたり、唄(おそらく彼が好きであったスティーブン・コリンズ・フォスター〔1826~1864〕の曲)を歌ったりして余裕のあるところを見せています。
捕鯨船に乗って長い航海を経験してきたことが、彼の余裕を支えています。
万次郎は、初めて夜直をした時に、水夫たち(塩飽島や長崎出身の水夫がほとんど)にマストに登ることを命じますが、水夫と対立し、水夫たちから「帆桁に吊るすぞ」と脅(おど)されたりしています。
また、ブルックから、士官と水夫の当直制度、水夫の配置について指示を受け、そのために奔走しています。
ブルックらアメリカ人と士官や水夫たち日本人の間に入って、通訳者である万次郎は相当に苦心したはずです。
万次郎の奔走により、当直制度は二月二日に確立しています。
この航海の中で、ブルック大尉と万次郎の間には、厚い信頼関係と深い友情が生まれます。
ブルックの万次郎評を、いくつか挙げてみると、
・万次郎は私が今まで会った人のうちで、最も優れた人物である。彼は『ボーディッチの航海書』を日本語に訳した。
・万次郎は冒険心に富んだ男で、私は彼の生涯の主な出来事を直接聞き出したいと思っている。彼は非常に話好きである。私には万次郎が誰よりも日本の開国に貢献した人物のように思われた。
・万次郎のみが、日本海軍の改革が必要なことを知っている。
・万次郎は豚肉を炭火で焼いたのが好きだ。
二月二十四日、サンフランシスコに近づくと、勝は、サンフランシスコ入港の指揮を万次郎に一任。万次郎が、事実上の艦長になります。
日本人の士官や水夫たちは、万次郎の卓越した航海術の力を認めざるをえなかったわけです。
二月二十六日、快晴。明け方、朝もやの中にアメリカ大陸の山々が見えてきます。
午前十時に、水先案内船が近寄り、二人の水先案内人が乗り込みます。
やがて咸臨丸はサンフランシスコの港に入り、午後一時にヴァレーホ波止場に投錨。
ブルック、佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、万次郎らは、第九埠頭より上陸し、アメリカ側とこれからのことについて打ち合わせをします。
翌日、木村、勝、小野友五郎、万次郎らが上陸し、インターナショナル・ホテル(五階建て・部屋数136ほど)に向かいます。
万次郎は、ほかのメンバーと、リンコン・ヒルに登ってサンフランシスコの市街や港を見下ろしたり、市街の散歩をしたり、歓迎会において木村摂津守の通訳をしたりしています。
三月三日、咸臨丸一行は、船の修理のためサンフランシスコを離れて、サクラメント川の下流、メア・アイランドの海軍造船所へ向かいます。
三月十五日、サンフランシスコに赴いていた万次郎と福沢諭吉(彼を始め多くの士官たちは、万次郎が翻訳した英会話書『英米対話捷径』を手にしています)は、書店でウェブスター編の『英語辞典縮刷版』を購入(万次郎は二冊〔この一冊を、万次郎は細川潤次郎に贈ります〕、福沢は一冊)。その書店の主人は、日本人の万次郎が非常に達者な英語を話すので、大いに驚いたというエピソードが残っています。
閏三月十二日、咸臨丸の蒸気機関が動き出し、午前十時にメア・アイランドを出港。午後一時にサンフランシスコに入港。
閏三月十九日、午前九時十五分前に、咸臨丸はサンフランシスコを出港し、日本に向かいます。
この一ヶ月余の滞在中に、万次郎は、ダゲレオタイプの写真機、ウィルソン社製のミシン、アコーディオン、書籍類(『図説米国海軍史』『図説米国史』『代数学原論』『物理学入門』『機械工学原理』など、かなり難しそうな本)を購入しています。
四月四日、咸臨丸は、ハワイのホノルルに入港。この時、万次郎はかつて世話になったデーモン牧師を訪ねます。
そして五月六日、浦賀・横浜に寄った後、深夜午後十時二十分、品川沖に投錨します。
さて、今日はここまでにします。
さらに続きがあるのですが、それはまたの機会ということで。
鮎川俊介
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます