鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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2012.12月取材旅行「桐生~境橋~足利」 その3 

2012-12-15 06:13:37 | Weblog
 墓域に入ると、「岩本一僊ノ墓」と刻まれた比較的新しい標柱の左側、そしてその標柱の後ろの「岩本茂登ノ墓」と刻まれたやはり比較的新しい標柱の左側に、年輪を経た古い墓石がありました。

 手前の墓石の正面には、「大安一僊道哲居士」、その左隣に「淳室貞曜大姉」と戒名が刻まれ、その後ろの墓石の正面には、「環覺浄融居士」、その左隣に「賢識妙壽大姉」と戒名が刻まれています。

 「大安一僊道哲居士」が岩本一僊(喜太郎)のことであり、「賢識妙壽大姉」が岩本茂登(崋山の妹・喜太郎〔一僊〕の母)ということになる。

 「環覺浄融居士」は岩本茂兵衛(3代目・茂登の夫)のこと。

 岩本一僊の墓石の横側には、「慶應四戊辰年六月二十三日 四代目岩本茂左衛門厚之 行年四十九歳」とあり、岩本一僊(喜太郎・4代目岩本茂左衛門)の没年月日がわかります。

 岩本茂兵衛・岩本茂登の墓石の横側には、「安政二乙卯年八月七日 三代目岩本茂左衛門厚載 壽七十一」とあり、岩本茂登の夫である茂兵衛(三代目岩本茂左衛門)の没年月日、「慶應三丁卯年七月二十六日 俗名 茂登 行年七十三歳」の没年月日などが刻まれています。


 その後ろには、「俗称 岩本茂左衛門厚然 壽六十三 女 幸 壽八十三」と刻まれた墓石を初めとして、岩本家の墓石が並んでいました。

 「岩本茂左衛門厚然」は、初代岩本茂左衛門(初代茂兵衛)のことであり、「幸」は、崋山が桐生を訪れた時、初代茂兵衛の未亡人として屋敷内の別室に住んでいました。

 初代茂兵衛(茂左衛門)は、二丁目の絹買継商(絹買)玉上甚左衛門に仕え、やがて玉上家から独立して絹買継商を始め、文化3年(1806年)頃には、正式に桐生の絹買仲間に加入していました。

 「幸」は、初代茂兵衛の妻であり、もとは遊女であったらしい(『毛武と渡邊崋山に関する新研究』眞尾源一郎)。「新月菴」と称して俳諧の嗜みもあった教養ある女性でもありました。

 「幸」はよく湯治に出掛けたらしく、ある時、根本山道→忍山(おしやま)道を通って忍山温泉へ行ったことがあり、その旅館で生田万(よろず)の父である生田作左衛門と邂逅し、その人柄が気に入って、帰途において岩本家に泊めたことがありました。

 したがって、崋山が中山道で「生田万」という異風な浪人(国学者)に出会って、歩きながらいろいろと話を交わしたことを話題にしたところ、「幸」は崋山に生田万のことやその父生田作左衛門のことを詳しく語ることができたのです。

 『毛武と渡邊崋山』(上毛郷土史研究会)によれば、「幸」は常に黄楊(つげ)の小櫛を横鬢に挿していたことから、「黄楊の婆さん」と言われていたという。また「赤い羅宇の長煙管」を「長火鉢」に当てて灰を落としている姿もよく見られたとのこと。

 茂登がこの姑(しゅうとめ)である「幸」や、また夫である岩本茂兵衛によく仕え、その賢妻ぶりは近所でも知れ渡っていたということは、崋山自身が、桐生から足利へ行く途中、たまたま葉鹿村の茶店でそのことを確認したことでした。

 「此家岩本氏が事をしり、…妹の貞操を称す、心甚よろこぶ。」

 4代目岩本茂兵衛(一僊・喜太郎)については、私は、崋山がこの甥っ子のために描いた「喜太郎絵本」への関心から、興味を持っている人物。

 『毛武と渡邊崋山に関する新研究』によれば、この4代目岩本茂兵衛(喜太郎)の長女登代の婿である善兵衛が5代目岩本茂兵衛になるが、幕末から明治維新にいたる世相の激変の中で、岩本家は破産状態になり、明治10年(1877年)には父祖伝来の屋敷は前原氏に売却されてしまったとのこと。

 この前原氏からは、後に桐生市長である前原一治氏(1900~1968・桐生市名誉市民第1号)が出ることになります。

 崋山が羽織袴姿で、岩本茂兵衛・喜太郎とともに訪れた観音院の岩本家墓地(墓石が2基あった)が、私が現在いるここであったかというと、やや場所が観音院から離れていることから疑わしく思われますが、初代岩本茂兵衛からのお墓が揃っているということで、桐生新町二丁目にあった岩本家および岩本家の人々が身近に感じられるようになった気がしました。

 鉄柵の閂(かんぬき)を閉めてその墓地を出て、近くにあるはずの「観音院」に足を向けました。



 続く


○参考文献
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『毛武と渡邊崋山に関する新研究』眞尾源一郎
・『毛武と渡邊崋山』(上毛こ郷土史研究会)
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岩本家の墓所 (福田光)
2018-09-17 01:16:28
はじめまして。
岩本一僊から数えて5代目の子孫です。
崋山が詣でた時の岩本家の墓所(初代茂兵衛とその娘の墓)がどこだったかは定かではありませんが、当時は幸(初代茂兵衛の妻)がまだ存命ですし、2代目茂兵衛(養子)は出奔して墓はないので、現在、確認できる墓(初代茂兵衛と幸の夫婦墓以降)は、まだ建立されていなかったはずです。また、岩本家は桐生では新興商人なので、墓所が観音院の本堂から離れたところにあったしてもやむを得ないでしょう。
現在の岩本家の墓所は、5代目茂兵衛の長女タカ(一僊の孫)で家名が絶えた後、5代目茂兵衛の3女サダの夫、行木宗七(東京日本橋の羅紗問屋)が石塀などを整備したもののようです。墓所の入口の鉄柵を支える石柱には、「為岩本家、大正10年6月、施主行木宗七」との文字が読めます。

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