鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013年・夏の取材旅行「水沢~気仙沼~宮古」  その11

2013-09-18 05:37:55 | Weblog

  国道際の小さな「東日本大震災 追悼施設」 に入ると、中には慰霊碑があり、その前に置かれた白い布が敷かれた台に幾つもの花束が置かれ、また傍らには多数の折り鶴の束が吊り下げられていました。

 さらに目をひいたのは、板壁に、その付近の震災前と震災後の風景写真とが、比較できるように上下に並べられて掲示されていたこと。

 「高田松原」(一本松としおさい橋)、「古川沼」(タピック屋上から)、「北方向」(タピック屋上から)といった写真であり、震災前と震災後の風景がわかります。

 「高田松原」の場合は、「しおさい橋」の突き当りに松原と、その突き当りやや右手に「一本松」が見えますが、震災後は松原はすべて消えてなくなり、橋の奥やや右手の「一本松」だけが残り、さらに松原のために見えていなかった橋左手奥の島のような陸地が見えています。

 この「一本松」が、「奇跡の一本松」として有名になったもの。

 「北方向」は、「タピック」屋上から北方向の陸前高田市街を見下ろしたもの。

 「タピック」とは、「タピック45」のことであり、道の駅の物産館のこと。この屋上から見下ろした景観です。

 「45」とは国道45号線のこと。

 震災前においてはすぐ下のバス専用駐車場に観光バスが停まり、国道の真向いにも「ふじ」と記されたレストランのようなお店があり、その向こうには田んぼがあって、そのさらに向こうに市街地があって学校らしき鉄筋コンクリートの建物もいくつか見えます。

 この写真を見ると、市街の南側や南東側に水田があって、新しい国道がその水田を突っ切るように造られ、その国道に沿った水田地帯に「道の駅 高田松原」が建てられたことがわかります。

 その「道の駅」の南側は「古川沼」という沼があって、「しおさい橋」を渡るとそこに「一本松」を含む松原(高田松原)が海岸沿いに広がっていた、ということになります。

 ところが震災後の写真を見ると、手前のレストランのようなお店も含めて、田んぼの奥の市街地も、いくつかの鉄筋コンクリートの建物を除いてほとんどが津波によってなくなってしまい、水田には雨水がたまっていて見るも無残な光景に変貌してしまっています。

 今、駐車場から国道向こうの風景を見渡してみても、奥の方の山までがすっきりと見え、5階建てほどの大きな建設中の建物2棟とそれ以外のいくつかのほかは付近に建物が見当たらず、陸前高田市街がほぼ壊滅的な津波被害を受けたことがわかります。

 またその風景の中には、ダンプカーや重機の姿も多数含まれています。

 追悼施設を出て、「タピック45」の建物に近寄ってみると、1階部分は津波が突き抜けたためにがらんどうであり、2階部分も窓が破損していたりなくなったりしています。

 「道の駅 高田松原 TAPIC45」と記された主棟の上部に展望室のようなものがあって、そこがタピックの屋上部分であるようです。

 その屋上から、北方向の陸前高田市街や、南の方の古川沼や高田松原や海岸を見渡すことができたのでしょう。

 もちろん現在は建物の中には入ることはできません。

 建物の左横の方から海岸方面を眺めてみましたが、見えると思った「奇跡の一本松」は、そこからは見ることができませんでした。

 海岸方向へ延びる砂利道の奥に、白い犬を連れた初老のおじさんが、両手を後ろ手にして立っている後ろ姿が目に留まりました。

 そこから駐車場を戻り、国道際にある追悼施設にもう一度入った後、カーナビで「陸前高田駅」を検索し、その目的地に向かって車を走らせてみました。

 鉄道(JR大船渡線)や駅はどうなっているのだろう、と思ったからでした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『三陸海岸大津波』吉村昭(文春文庫/文藝春秋)

 

 



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