鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2011.1月取材旅行「新川口~本行徳~妙典」 その3

2011-01-28 06:28:54 | Weblog
 「ねね塚」から旧江戸川沿いに下流へと歩いていったところ、対岸の町並みの向こうに白い雪をかぶった富士山が見えました。2階建ての家や高いビルがあっても富士山が見えるのだから、かつて人家の屋根が低かった時には富士山はもっと下まで大きく見えたはず。この地域の人々にとっても、富士山は常に身近に感ずる山であったと思われます。

 そこからすぐに左手に見えてきた大きな公園は「広尾防災公園」。その奥にある大きな工場が「三共油化工業株式会社」。その先で左折して、高層マンションの前を進んでぶつかったミニ公園にあった立派な案内板が「かつての新井村と防災公園」というものでした。

 それによると、江戸時代前期、新井村といわれるこの辺一帯は、満潮時には海水が入り込む葦萱(あしかや)がが繁茂する低湿地帯でした。また江戸川の洪水の時には調整池としての役割ももっていたらしい。しかし元禄15年(1702年)以後、この地域は干拓されて新田として開発され、新井川(現在の新井緑道)が干拓地の排水を目的として、この頃に掘られていきました。さらに江戸川の洪水を防ぐために、今井の渡しの堤防から島尻までを頑丈な堤防で繋いだのだという。

 元禄期以後、この地域は穀倉地帯として歴史を刻んでいったものの、昭和41年(1966年)から始まった「区画整理事業」により、住宅と工場が混在する「まち」へと変貌。さらに平成10年(1998年)頃には、工場跡が大型マンションに建て替えられて急激に人口が増加したことから、震災時の避難地確保など防災機能の強化が急務となり、そこで製鋼所の跡地に防災拠点として整備されたのが「広尾防災公園」であるという。完成されたのが平成22年(2010年)ということだから、まだピカピカの防災公園であるということになります。

 案内板には、戦前の新井川で地元の人々が写した写真が掲載されていますが、その新井川は現在は埋め立てられて「新井緑道」となっています。

 「周辺案内図」で現在地を確認すると、熊野神社・延命寺・新井寺は、ほんの近くに集中しています。

 通りを南方向へと進んで出た通りにあったバス停が「京成トランジットバス」の「新井」というバス停であり、行き先は「浦安駅」となっています。

 延命寺は住宅街の真ん中のようなところにあり、その境内地に接して隣にある神社が熊野神社でした。

 まず延命寺へと入ってみると、高札風の例の案内板があり、それによるとこのお寺も真言宗豊山派のお寺で、慶長元年(1596年)に建立されたという。

 江戸開幕以前に建立されている古いお寺です。

 「案内板」には、「ねね塚」の案内板の説明を補足するような文章が記されていました。それによると市川から江戸川を渡ることは、女人禁制であり、それを破った駆け落ち夫婦が「久三郎」と「イネ」の両人でした。そのためにその夫婦と、その夫婦を渡し船で渡した船頭2人とその女房の1人、合わせて5名が今井で処刑され、それを憐れんだ村人たちが、彼らの後生を弔うために、現在の新井水門付近に石地蔵を建立。その石地蔵は「首切り地蔵」と呼ばれ、寛政7年(1795年)、当時の住職が石地蔵を同場所に再建したが、その後、延命寺に移され、現在の「首切り地蔵」は、昭和に再建されたものであると記されています。

 先ほどの「ねね塚」の案内板の説明と総合すると、正保元年(1644年)に、女人禁制であるにも関わらず、「今井の渡し」を渡って江戸方面へと向かおうとした生実藩の家臣「久三郎」とその妻「イネ」が、ご禁制を破ったという廉(かど)で捕えられ、また法外な渡し賃を貰ってそれに協力した船頭2人とその1人の妻も捕えられて、今井の渡し場から100mほど下流のところで磔刑となり、その者たちの供養のためにと当時の村人たちが建立した石地蔵が「首切り地蔵」であったということになります。

 はじめは磔場付近にあったのが、江戸川の洪水で流されたため、寛政7年(1795年)に当時の延命寺の住職が石地蔵をもとあった場所(磔場付近)に再建。それが後に延命寺に移転されたものの、現在の石地蔵は昭和になってまたまた再建されたものである、ということです。

 その昭和になって再建されたという石地蔵を探してみると、入口右手の角にコンクリートブロックを積み上げて造った四角い小屋のようなものがあり、その中に赤い帽子と赤い前垂れを付けた石地蔵の立像が安置されていました。

 そのお堂の前には、石地蔵に色とりどりの仏花を供え、お線香を上げ、そして掃除をしている一人の年輩の女性がいました。

 コンクリートブロックで造られたそのお堂の左横には、「首切り地蔵」と書かれた案内板が立っており、新たな説明として、次のようなことが書かれていました。

 「不思議なことに、この石地蔵は村人が通るとかならず首が落ちていた、何度セメントでつけても落ちてしまうので村人は首切り地蔵と呼ぶようになった。いまの地蔵は 老朽化が甚だしく現住職及び総代世話人一同で再建したものである。」

 お堂の掃除をしているおばあちゃんに挨拶をして、「昔のお地蔵さんはどこにあるんですか」と尋ねてみました。



 続く


○参考文献
・『明解 行徳の歴史大事典』鈴木和明(文芸社)
・『行徳と浦安の今とむかし』(宮崎長蔵)
・江東区立中川船番所資料館の展示物解説


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