鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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富士山の宝永大爆発について

2008-06-28 09:48:04 | Weblog
 宝永4年(1707年)の10月4日午後2時頃、東海・南海・西海道を中心に、大地震が日本列島を襲いました。マグニチュードは推定8,4。地震は甲斐信濃・北陸・畿内・山陰・山陽におよび、津波は房総から九州におよんだという。この大地震のわずか49日後に、富士山が大爆発を起こしており、この大地震の発生と富士山の大爆発は十分に関連性があるようです。

 10月4日の大地震から一ヶ月ほど経った頃から、富士山麓においては、震動や地鳴り、また地震が感ぜられるようになり、大爆発前日にあたる11月22日から当日の朝にかけて、吉田(山梨県富士吉田市)や吉原(静岡県富士市)でも頻発地震が発生したという(『富士山宝永大爆発』永原慶二〔集英社新書〕)。

 爆発した地点は、山頂から東南斜面、海抜2700mほどまで下ったところ(宝永山の標高は2693m)。

 「大音響、地鳴りとともに火口直下に上昇したマグマがおよそ一キロメートル立方、すなわちほぼ一〇億立方メートルと推定されるとてつもない大容積の山体をえぐり取るように噴き飛ばし、真赤な炎が上がって、火山弾まじりの岩・砂を天空高く噴き上げつづけた。専門家のいうテフラ(岩・砂などの噴出物の総称)である。」(前掲書より)

 噴火直後の数時間は、噴出するテフラは白色でしたが、やがて黒く変化し、昼であるにもかかわらず、東側の山麓の村々は噴煙に日光を遮(さえぎら)られて闇夜のような状態になりました。上空高く噴出したテフラは、おりからの冬の強い偏西風に乗って東方に運ばれました。須走(すばしり)口登山道の起点である須走村は、灼熱の火山弾の直撃を受けて、村の家々の約半数が炎上、また焼け残った家も、最終的に3mもの高さに堆積したテフラのためにすべて潰(つぶ)れてしまいました。

 須走村の東方にある大御神村(おおみかむら・小山町)も、1,5~2.0mほどのテフラに埋もれてしまいました。

 この大御神村の東に続く、中日向(なかひなた)・上野・湯船・柳島などの村々(現小山町)や、須走の南に続く水土野(みどの)・柴怒田(しばんた)・中畑・仁杉(ひとすぎ)などの村々(現御殿場市)でも1.0~1.5mものテフラが降り積もりました。

 偏西風に乗った富士山大爆発による降砂は、山北村や足柄平野・小田原方面、さらに秦野(はだの)・藤沢・横浜方面、そして江戸にまでおよびました。

 五代将軍綱吉の嗣子家宣(いえのぶ)の侍講(じこう・家庭教師)であった新井白石は、自叙伝『折たく柴の記』のなかで、

 「此日(23日)午(うま)の時(正午)雷音、白灰降る、草木もみな白色となる。空暗く、燭(しょく)をともして講義、戌(いぬ)の刻(午後八時)降灰止む」

 と書いているそうです。

 この23日の時点では、江戸の新井白石は、その「雷音」や「降灰」が富士山の大爆発によるものだとは知らなかったに違いない。

 この富士山大爆発を江戸の幕府に知らせる第一報は、吉原宿の問屋年寄からの注進でした。その報告書は、宿継ぎ(東海道経由の特急便)で、翌24日には江戸の道中奉行に届けられ、そこから幕閣に提出されました。新井白石が、「雷音」や「降灰」が富士山の大爆発によるものだと最終的に確認したのは、この届けによるものであったでしょう。

 宝永4年11月23日の午後(夕刻か)から翌24日にかけて、吉原→原→沼津→三島→〈箱根峠西坂〉→箱根→〈箱根峠東坂〉→小田原→大磯→平塚→藤沢→戸塚→保土ヶ谷→神奈川→川崎→品川の東海道各宿の間を、江戸に向けて宿継ぎの飛脚が全速力で走っていったのです。

 吉原宿からの報告を受けた幕府は、翌25日、早くも現地に見分のための使者を出発させました。徒目付(かちめつけ)の市野新八郎・安田藤兵衛・馬場藤左衛門の3名。彼らは部下6名を引き連れて、小田原に向けて騎馬で東海道を西進(宿継ぎ─宿で馬を乗り換える)。その日の夜には、小田原に到着しています。歩けば3日の行程をたった1日(半日)で走ったことになる。馬上の彼らの見上げる空には、黒い噴煙(細かいテフラを含む)が覆っていたことでしょう。彼らは富士山の爆発地点約四里ほどのところまでは接近することができましたが、それ以上は深く堆積したテフラ(かなりの熱をもっていたに違いない)のために進むことが出来ず、そこから引き返して、12月5日に江戸に戻りました。

 この大爆発がおさまり、降砂がようやく終息したのは、大爆発発生から半月後の12月8日のことでした。

 この宝永4年の富士山大爆発については、『富士山大噴火─宝永の「砂降り」と神奈川─』(神奈川県立博物館)というのがあり、そのP23に「富士山噴火絵図三景」がおさめられていますが、これは吉原宿の書役(かきやく)が描いたといわれる噴火の図。またP24には「富士山図」が掲載されていますが、これは吉原宿方面から噴火状況を見分した幕府代官が描いた絵図がもとになっているらしい。またP80には、大爆発の翌年に、蒲原(かんばら)宿から吉原宿の中間から見た富士山の絵が掲載され、また東田子浦(ひがしたごのうら)付近からの富士山の絵も掲載されています。宝永4年11月23日の大爆発以後、吉原宿周辺および東海道を行き来する人々の関心事は、真北に間近に迫って見える富士山の東側斜面の爆裂口の状況であったに違いない。爆裂口からの噴煙は、偏西風に乗って東方向に流れ、ここからは富士山の全景が(噴煙も含めて)はっきり見える。このあたりは幸いなことに降砂の被害もなかったのです。

 さて、この時、あの村山浅間神社はどうであったのか。

 それについては畠堀操八さんの『富士山・村山古道を歩く』に記述があります。

 『駿河国新風土記』に「村山の浅間宮の諸堂社末社はともに…宝永の山焼けに退転して」しまったとあるのが、それ(P120)。

 「宝永の山焼け」というのは、宝永4年11月23日の富士山大爆発をさしていますから、おそらくこの大爆発の前の大地震(マグニチュード推定8.4。10月4日発生。文献で知られるようになってからは史上最大級の地震だといわれる)と、この大爆発前後の地震によって、周辺末社も含めて、ことごとくが倒壊してしまった、ということになります。

 村山浅間神社の境内にあったあの大日堂は、畠堀さんによると、江戸時代の末、安政5年(1858年・安政元年〔1854年〕11月4日と安政2年〔1855年〕10月2日に、2年連続して大地震が発生している)頃の建立ではないか、ということです。

 ということは、あの大日堂は、オールコック一行が興法寺に一泊した時には、まだ新築間もない建物として存在していたことになるのです。


○参考文献
・『大君の都(中)』オールコック(岩波文庫)
・『広重と歩こう 東海道五十三次』安村敏信・岩崎均史(小学館)
・『富士山宝永大爆発』永原慶二(集英社新書)
   ※この記事の内容は、おもにこの本によっています。
・『富士山大噴火─宝永の「砂降り」と神奈川─』(神奈川県立歴史博物館)
・『富士山・村山古道を歩く』畠堀操八(風濤社)

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