鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

甲州街道を歩く-笹子峠~甲府まで その2

2017-09-25 06:18:49 | Weblog

 

 「矢立の杉」の近くにある展望台で休憩してからの峠道がしばらく険しい。

 険しい山歩きをして、「林道 笹子峠下線」の起点の看板を見て再び「県道日影・笹子線」の舗装道路に出たところで、その道の先に見えたのが赤レンガ造りの坑門を持つ「笹子隧道」で、そのアーチ型の入口のずっと奥に出口の小さな穴が白く見えました。

 「笹子隧道について」と記された案内板があり、それによると、笹子隧道は昭和11年(1936年)から昭和13年(1938年)まで国庫補助を入れて28万6700円の工費を投入し、昭和13年3月に完成。

 坑門の左右にある洋風建築的な二本並びの柱形装飾が大変特徴的であるという。

 昭和33年(1958年)に新笹子トンネルが開通するまで、この隧道は、山梨、遠くは長野辺りから東京までの幹線道路として甲州街道の交通を支えていたとのこと。

 昭和前期の大役を終え、登録有形文化財に指定されたのが平成11年(1999年)。

 そこには「笹子峠~清八峠登山道案内」もあり、先ほどの「追分」は、「清八峠」(清八山)へ至る道が甲州街道から分岐する「追分」であることを知りました。

 その山道は、清八峠を越えて河口湖方面へ向かう道であったでしょう。ということは河口湖方面から人やものが入って来る峠道でもあったということになります。

 そこからしばらく山道を登ると、「←大和村日影 かいやまと駅 約2時間30分 笹子駅約2時間→ 笹子雁ヶ腹摺山約1時間10分→  ←カヤノキビラノ頭約1時間30分」と記された案内板があり、この辺りが峠の頂上となります。

 白野宿から笹子峠を越えて駒飼宿までは、徒歩で6時間ほどはかかったものと推測できます。

 笹子峠の山道を下ってふたたび県道に出てしばらく進むと、左手に「史跡 甘酒茶屋跡」の標柱。

 広重はこの笹子峠の「半分頃のぼりに休」み、「うかうかと峠を越て休」んでいますが、最初休んだところは「三軒茶屋」で、峠の頂きを越えて二回目に休んだところはこの「甘酒茶屋」であろうと思われました。

 「甘酒茶屋跡」から県道をひたすら下って行くこと30分ほどで、「笹子峠」「甲州峠唄」と記された案内板がありました。

 それによれば笹子峠は甲州街道のほぼ中間にあり「上下三里」の難所でした。

 峠には諏訪神社分社と天神社が祀られていて、広場には常時、馬が20頭ほど繋がれていたという。

 また「甲州峠唄」の説明によると、昭和62年(1987年)の5月、清水橋から峠まで地域振興の一環として、日影区民一同と大和村文化協会の協力によって荒れていた旧道を整備して歩行の出来る状態にしたということであり、それまでは旧道は長い間荒れ果てたままであったことになります。

 先ほどの「三軒茶屋跡」の「顕彰の記」によれば、中央線(鉄道)の開通以後、馬による物資の運搬が激減して荒れ果てた状態になっていったのでしょう。

 そこから30分ほど下ると、左手と前方の視界が急に開けてきます。国中一帯が遠く視野に入ってくる地点。

 そこからまもなく左手に「秣負う 人を栞の 夏野哉」と刻まれた芭蕉句碑が現れました。

 「秣」(まぐさ)は馬の飼料。「栞」(しおり)は、道しるべや手引きという意味。

 夏の野原の中を、秣を背負った村人に道案内されて歩いている自分(芭蕉自身)の姿を詠んだもの。

 芭蕉がこの句を詠んだのは那須高原のあたりであったようですが、馬の飼料である秣を背負って運ぶ村人の姿は、この甲州街道でも常日頃見られる光景であったでしょう。

 駒飼宿~黒野田宿の間は街道最大の難所である笹子峠であり、重い物資の運搬はもっぱら馬によってなされたはずであり、その馬を曳く馬子たち(駄賃稼ぎの人足たち)の姿も多く見られたことが推測されます。

 「駒飼」という宿場の名前は、笹子峠を前にして荷物を運ぶ馬が多数常備されていたことを伺わせます。

 そこから間もなく「甲州市縦断線バス」の「日影上」バス停があり、その向かいの空き地に「史跡 駒飼脇本陣跡」の標柱が立てられていました。

 そこから先の道の両側に家並みが続いており、それがかつての甲州街道駒飼宿でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『歌川広重の甲州日記と甲府道祖神祭 調査研究報告書』(山梨県立博物館)



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