鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

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飛騨一之宮の臥龍桜(がりゅうざくら) その最終回

2018-06-12 07:46:58 | Weblog

 「臥龍桜」の昭和30年代の写真(「臥龍桜を守り、育てる」の案内板)を見ると、右側の桜の巨木の根元から大枝が左へ伸びていて、それが接地してから斜め上へと伸びており、その先に枝葉が茂っています。

 左側の大枝の先は2本の丸太で支えられています。

 その桜の巨木から左手へと伸びた大枝と、その先の枝葉の繁りは、確かに大きな龍が地面に臥せて頭を持ち上げた姿に見えます。

 しかし現在の「臥龍桜」は、右側の桜の巨木と左側の桜樹との間には草の生えた地面があって、昭和30年代の「臥龍桜」のように大枝が伸びている姿ではありません。

 案内板(小学生が記した模造紙の案内板も含めて)の説明によれば、その大枝は台風の被害によって枯損たものの、その大枝は地面についたところで発根して独立した桜樹となったことがわかります。

 詳しいことはわかりませんが、樹木医の林進氏や村人の協力により、台風によって深刻な被害を受けて「復活は不可能」とされたものの、あらゆる手段が講じられたことにより奇跡的な復活が実現されたということで、1994年の19号により大被害を受けた「臥龍桜」の写真は、復活のための手立てがなされている姿を写した写真であることがわかります。

 地面についた左側の大枝がそこから発根して独立したというのは、自然にそうなったのではなく樹木医の林進氏による手立てや再生を願う村人たちの協力があってこその結果であったでしょう。

 従って現在の「臥龍桜」はかつての巨樹の根元から伸びた大枝が左方向へと地を這って延びた姿ではなく、その大枝が新たに発根して左側に独立した桜樹となったものであって、右と左の両方の桜樹が桜を咲かせることによりかつての「臥龍桜」のようにつながって見えるものであることがわかります。

 小山の斜面に咲いていることによって斜面を覆うようなこんもりとした桜樹となっており、背景に緑があることによってその緑の中の淡いピンクを帯びた桜花の白が際立って見えます。

 多数の支え木によって枝は支えられているものの、その支え木の存在はわずらわしいものにはなっていません。

 桜花は伸び伸びと四方に広がり、見ようによっては小山のすそにたなびく一片の白雲のよう。

 戻る途中、JR高山線の飛騨一之宮駅の跨線橋の上から「臥龍桜」を振り返ってみると、桜の前で花見客に説明をしている小学生たちの姿が見えました。

 その「臥龍桜」の左手にある建物が大憧寺。

 「臥龍桜」はもともとは「大憧寺の大桜」と地元では呼ばれていたのです。

 駅には「普通運賃表」がありました。

 それによると高山へは210円、下呂へは840円、飛騨古川へは410円、富山へは1850円とありました。

 1日の本数は上り下りとも10本ほど。

 一度高山線全線に乗って窓外の風景を楽しみたいものだと思いました。

 駅の正面側にも無料駐車場があって、その近くの線路際に美しい桜が咲いていました。

 「高山市健康づくりウォーキングマップ」があって、それには「臥龍桜」や宮川の堤の桜がピンクで示されています。

 一之宮の中心街は私が車を停めたJA(農協)の先(西側)にあり、そこに「宮小学校」や「宮中学校」、「宮保育園」などがありました。

 私は「一之宮小学校」と思い込んでいましたが、「宮小」は「宮小学校」であったのです。

 「標高約650m JR飛騨一之宮駅から宮川沿いを歩くウォーキングコースです。春には宮川の桜、臥龍桜なども楽しめます。美しい景色や宮川の流れを眺めながら、健康づくりウォーキングを楽しんでください」とそのマップには記されていました。

 駅前の道を南下して宮川に架かる「一之宮橋」を渡ってすぐに右折。

 宮川の土手に咲く桜の花を見上げながら歩いて「山下橋」のところで左折。

 JAの駐車場に戻って帰途に就きました。

 

  終わり

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