鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

木下(きおろし)河岸 その最終回

2011-06-01 06:12:36 | Weblog
木下河岸は、明治時代になっても蒸気船が就航するなど、川の駅としてさらに繁栄していきましたが、明治34年(1901年)の成田鉄道の開業や、明治末から大正時代にかけての利根川堤防の大改修工事などにより、その姿を大きく変貌させ、徐々に衰退の道を歩んでいきました。現在、木下河岸跡を眺めても、かつての木下河岸の姿を思い浮かべることは困難であり、また街道筋の町並みもかなり変化しており、歩いて眺めただけでは、かつての様子を窺い知ることさえなかなか難しい。となると、『利根川図誌』に描かれている木下河岸の姿や明治時代の古写真、さらに復元図や当時の文献資料、また研究論文や地元の方の話など、さまざまな史資料を参考にして、当時の姿を自分なりに再現していくしかありません。歩くことにより現場を踏むことはもちろん大切ですが、大きくその景観が変貌している場合、それだけで判断したり推定すると、大きな誤りをおかしてしまうことがあるのです。木下河岸の場合、利根川の堤防工事はやむを得ないとしても、手賀沼から続く「落堀」(おとしぼり)さえも埋め立ててしまったことはきわめて残念なことでした。江戸地廻り経済圏の交通上の要衝地としての木下河岸の歴史、印西市の繁栄の源となった木下河岸の重要な歴史的意味合いを、まるで抹消してしまおうという意図さえ感じられるほどの土木工事ではなかったか。その地域の発展が何に由来していたのか、どういう人々の生業(なりわい)の集積によって歴史や文化が成り立って行ったのか、そういうことに思いを致さない人々による土木工事が、とくに昭和30年代以後、全国いたるところで進められていきました。その具体例の一つが、この「木下河岸」であるように私には思われました。 . . . 本文を読む