金谷武洋の『日本語に主語はいらない』

英文法の安易な移植により生まれた日本語文法の「主語」信仰を論破する

第74回 「早く宿題やって遊ぶべ」

2012-02-19 11:24:30 | 日本語ものがたり
 ご周知の通り、現代日本語の母音は『あ・い・う・え・お』の5つです。とは言っても、その使われ方は一様ではなく、「え」は他の4つと比べて使われる頻度がかなり少ないのです。先ず、国語学者大野晋の「日本語の文法を考える」(岩波新書:1978)に挙げられているデータをご紹介しましょう。それは、万葉集の5,14,15,17,18,19,20合計7巻に使用された万葉仮名の総数を音節ごとに集計したもので、音節の総数は4万1947。その母音ごとの分布は下記のようでした。なお、ここでア列音というのは「あ・か・さ・た・な・は・ま」のように、母音アを含んだ音節のことです。

ア列音:  12,120 28.9%,
イ列音:  9,633 23.0%,
ウ列音:  6,415 15.3%,
エ列音:  3,838 9.1%,
オ列音:  9.941 23.7%

 ご覧の様にエ列音は大変少なく、ア列音の三分の一以下です。さらに、エ列音は単語の始めに出て来ることが非常に少ないこと、僅かしかないエ列音で始まる単語の半数以上は漢語であること、の2点を踏まえて、大野は「歴史以前の日本語にはエという母音はなかった」という大胆な仮説を立てました。大野によれば、エ音は「a+i」あるいは「i+a」の二重母音から日本語に二次的に発生した母音なのです。例えば命令形の「行け」も時を遡れば、「行き+あ」であったらしく、確かに、各地の方言には「行きあ~(あるいは行きや~」)と言う表現が今でも各地に残っています。このブログの読者も日本各地にいらしゃるでしょうから、あるいは心当たりがあるかも知れません。

 さて、そこでハタと思い当たるのはモントリオールで日常耳にするフランス語で「家」のことを「メゾン」と言うことです。これもスペルを見ますと「méson」ではなく「maison」ですね。スペルから、昔は恐らく表記通りに「マイソン」と発音されたであろうと想像されますが、二重母音の「アイ」が「エ」と変わったことと、上記の「アとイの連続から新しい母音エが出来た」という日本語の状況は実によく似ています。

 長々と書いて来ましたが、ここまでが実は今回の話題の「枕」なのです。今回お話ししたかったのは「何故形容詞で『い』の前にエ音が来ないか」という問題です。

 国文法で言うところの用言(文中で形が変わるもの)である形容詞は全て「い」で終わりますが、「あかい・かわいい・古い・面白い」のように最後の「い」の前は「あ・い・う・お」の4つのみで、「え」の場合を探してもなかなか見つかりません。日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つだと思っていてはこうした状況は説明出来ませんが、「エ音」は昔の日本語になかったと知ると何となく納得できます。先月まで2回の記事で扱った「な形容詞」では「有名な」「綺麗な」など「え+い」は可能ですが、これらも「有名・綺麗」が本来は漢語だということで例外扱いが出来る訳です。

ところが、です。探してみると例外はあるもので、和語でしかも「い形容詞」でありながら「い」の前が「エ」である単語が実は数例あるのです。いえ、「あった」と言うべきかもしれません。もう現在では使われていないからです。そんな例外を二つだけご紹介しましょう。

  一つは「至る所にいる(ある)という意味の」「あまねい」です。これは現代日本語では副詞の「あまねく」にかろうじて姿をとどめています。古語は「あまねし」で、本来であれば「青し」が「青い」になったように「あまねい」という言葉になる筈でしたが、廃れてしまいました。「言葉は生きている」とよく言われますが、それは単語にとっては熾烈な生存競争でもあって、その過程で「あまねい」は生き残ることができなかったわけです。もう一つの例は「そうあって当然だ」という意味の「~べし」です。こちらはやや畏まった文語表現として、連体形の『べき』とともに平成の御代まで生き残りました。それが「日本人のあるべき姿」とか「断固主張すべし」などという表現です。さらに「べし」が幸運だったのは「し」が「い」となった形すら方言には残ったことで、それが東北、北海道などでよく耳にする「べい」(あるいはそれが短くなった「べ」)です。かく申す私も道産子なので、子供の時によく友達に「早く宿題やって遊ぶべ」などと言っていたことを今では懐かしく思い出します。(2012年2月)


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6 コメント

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Unknown (蛮茶庵)
2012-02-20 14:33:55
池波正太郎の鬼平犯科帳で毎朝のみそ汁の味が濃くなつたのを鬼平がなにかあつたかと尋ねる場面があります。それにならつて、チエ蔵さんなにかありましたか、お疲れではないですか。

時を溺れば ⇒ 時を遡れば

フランス御で ⇒ フランス語で
「マイソン」ろ発音 ⇒ 「マイソン」と発音

たぶんかうなのだと思います。
けつしてあら探しではありません。気がついたので書きました。

行つたらいいのにの「行きや~ええやないかい」の「行きあ~」や、「行きや~」は、いまでも紀伊半島では使はれてゐるはずです。
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誤植 (たき )
2012-02-21 17:59:01
蛮茶庵さま、

誤植のご指摘、ありがとうございます。私の打ち間違いでチエ蔵さんに非はありません。早速直しておきました。
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エ列の形容詞 (さん)
2012-02-22 22:52:25
形容詞の「い」の前にエ列の音が来ないということに、この記事で初めて気がつきました。

「あまねし」と「べし」の例から、他に何かないか…と考えたところ、「さやけし」という言葉を思いつきました。
これも古語で現代まで生き残ったとはいえない言葉ですが、仮に生き残ったとしたら「さやけしい」でしょうか?
「しい」で終わる言葉では、エ列の言葉はあるのでしょうか。

私も北海道出身です。
「行くべー」など子供の頃は使っていたものです。
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さやけし (たき )
2012-02-24 14:14:41
さん様、

コメント、ありがとうごいざました。おっしゃる通りで、
「さやけし」もエで終わる例外的な形容詞です。漢字表記は『明る(さや)けし』で、現代に残っていたら「さやけしい」ではなく『さやけい』でしょうね。終止形「し」や連体形「き」の子音が落ちて「い」となりました。かくて「赤し」「赤き」の現代の語形が「赤い」一つに収斂しました。旧制高校の校歌など探してみたら「明(さや)けき月の~」など出てきそうですね。

たまたま「あまねし」と「さやけし」と似た語形の二語が並びましたが「し」で終わることと「エ列」には直接の因果関係はないように思います。
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Unknown (さん)
2012-02-25 19:18:04
お返事ありがとうございます。

確かに「さやけき光」などと言いますね。
「しい」の形容詞ではありませんでした。
ご説明と用例、ありがとうございました。勉強になりました。
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擬態語・擬音語 (佐藤)
2012-04-07 15:49:44
こんにちは。

擬態語・擬音語もエ段は少ないですね。

○カラカラ
○キリキリ
○クルクル
×ケレケレ
○コロコロ

最近なら以下の用例もありますね。

○ダラダラ
○ヂリヂリ(ジリジリ)
○ヅルヅル(ズルズル)
○デレデレ
○ドロドロ
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