ご周知の通り、現代日本語の母音は『あ・い・う・え・お』の5つです。とは言っても、その使われ方は一様ではなく、「え」は他の4つと比べて使われる頻度がかなり少ないのです。先ず、国語学者大野晋の「日本語の文法を考える」(岩波新書:1978)に挙げられているデータをご紹介しましょう。それは、万葉集の5,14,15,17,18,19,20合計7巻に使用された万葉仮名の総数を音節ごとに集計したもので、音節の総数は4万1947。その母音ごとの分布は下記のようでした。なお、ここでア列音というのは「あ・か・さ・た・な・は・ま」のように、母音アを含んだ音節のことです。
ア列音: 12,120 28.9%,
イ列音: 9,633 23.0%,
ウ列音: 6,415 15.3%,
エ列音: 3,838 9.1%,
オ列音: 9.941 23.7%
ご覧の様にエ列音は大変少なく、ア列音の三分の一以下です。さらに、エ列音は単語の始めに出て来ることが非常に少ないこと、僅かしかないエ列音で始まる単語の半数以上は漢語であること、の2点を踏まえて、大野は「歴史以前の日本語にはエという母音はなかった」という大胆な仮説を立てました。大野によれば、エ音は「a+i」あるいは「i+a」の二重母音から日本語に二次的に発生した母音なのです。例えば命令形の「行け」も時を遡れば、「行き+あ」であったらしく、確かに、各地の方言には「行きあ~(あるいは行きや~」)と言う表現が今でも各地に残っています。このブログの読者も日本各地にいらしゃるでしょうから、あるいは心当たりがあるかも知れません。
さて、そこでハタと思い当たるのはモントリオールで日常耳にするフランス語で「家」のことを「メゾン」と言うことです。これもスペルを見ますと「méson」ではなく「maison」ですね。スペルから、昔は恐らく表記通りに「マイソン」と発音されたであろうと想像されますが、二重母音の「アイ」が「エ」と変わったことと、上記の「アとイの連続から新しい母音エが出来た」という日本語の状況は実によく似ています。
長々と書いて来ましたが、ここまでが実は今回の話題の「枕」なのです。今回お話ししたかったのは「何故形容詞で『い』の前にエ音が来ないか」という問題です。
国文法で言うところの用言(文中で形が変わるもの)である形容詞は全て「い」で終わりますが、「あかい・かわいい・古い・面白い」のように最後の「い」の前は「あ・い・う・お」の4つのみで、「え」の場合を探してもなかなか見つかりません。日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つだと思っていてはこうした状況は説明出来ませんが、「エ音」は昔の日本語になかったと知ると何となく納得できます。先月まで2回の記事で扱った「な形容詞」では「有名な」「綺麗な」など「え+い」は可能ですが、これらも「有名・綺麗」が本来は漢語だということで例外扱いが出来る訳です。
ところが、です。探してみると例外はあるもので、和語でしかも「い形容詞」でありながら「い」の前が「エ」である単語が実は数例あるのです。いえ、「あった」と言うべきかもしれません。もう現在では使われていないからです。そんな例外を二つだけご紹介しましょう。
一つは「至る所にいる(ある)という意味の」「あまねい」です。これは現代日本語では副詞の「あまねく」にかろうじて姿をとどめています。古語は「あまねし」で、本来であれば「青し」が「青い」になったように「あまねい」という言葉になる筈でしたが、廃れてしまいました。「言葉は生きている」とよく言われますが、それは単語にとっては熾烈な生存競争でもあって、その過程で「あまねい」は生き残ることができなかったわけです。もう一つの例は「そうあって当然だ」という意味の「~べし」です。こちらはやや畏まった文語表現として、連体形の『べき』とともに平成の御代まで生き残りました。それが「日本人のあるべき姿」とか「断固主張すべし」などという表現です。さらに「べし」が幸運だったのは「し」が「い」となった形すら方言には残ったことで、それが東北、北海道などでよく耳にする「べい」(あるいはそれが短くなった「べ」)です。かく申す私も道産子なので、子供の時によく友達に「早く宿題やって遊ぶべ」などと言っていたことを今では懐かしく思い出します。(2012年2月)
応援のクリック、どうぞよろしくお願い申し上げます。
ア列音: 12,120 28.9%,
イ列音: 9,633 23.0%,
ウ列音: 6,415 15.3%,
エ列音: 3,838 9.1%,
オ列音: 9.941 23.7%
ご覧の様にエ列音は大変少なく、ア列音の三分の一以下です。さらに、エ列音は単語の始めに出て来ることが非常に少ないこと、僅かしかないエ列音で始まる単語の半数以上は漢語であること、の2点を踏まえて、大野は「歴史以前の日本語にはエという母音はなかった」という大胆な仮説を立てました。大野によれば、エ音は「a+i」あるいは「i+a」の二重母音から日本語に二次的に発生した母音なのです。例えば命令形の「行け」も時を遡れば、「行き+あ」であったらしく、確かに、各地の方言には「行きあ~(あるいは行きや~」)と言う表現が今でも各地に残っています。このブログの読者も日本各地にいらしゃるでしょうから、あるいは心当たりがあるかも知れません。
さて、そこでハタと思い当たるのはモントリオールで日常耳にするフランス語で「家」のことを「メゾン」と言うことです。これもスペルを見ますと「méson」ではなく「maison」ですね。スペルから、昔は恐らく表記通りに「マイソン」と発音されたであろうと想像されますが、二重母音の「アイ」が「エ」と変わったことと、上記の「アとイの連続から新しい母音エが出来た」という日本語の状況は実によく似ています。
長々と書いて来ましたが、ここまでが実は今回の話題の「枕」なのです。今回お話ししたかったのは「何故形容詞で『い』の前にエ音が来ないか」という問題です。
国文法で言うところの用言(文中で形が変わるもの)である形容詞は全て「い」で終わりますが、「あかい・かわいい・古い・面白い」のように最後の「い」の前は「あ・い・う・お」の4つのみで、「え」の場合を探してもなかなか見つかりません。日本語の母音は「あ・い・う・え・お」の5つだと思っていてはこうした状況は説明出来ませんが、「エ音」は昔の日本語になかったと知ると何となく納得できます。先月まで2回の記事で扱った「な形容詞」では「有名な」「綺麗な」など「え+い」は可能ですが、これらも「有名・綺麗」が本来は漢語だということで例外扱いが出来る訳です。
ところが、です。探してみると例外はあるもので、和語でしかも「い形容詞」でありながら「い」の前が「エ」である単語が実は数例あるのです。いえ、「あった」と言うべきかもしれません。もう現在では使われていないからです。そんな例外を二つだけご紹介しましょう。
一つは「至る所にいる(ある)という意味の」「あまねい」です。これは現代日本語では副詞の「あまねく」にかろうじて姿をとどめています。古語は「あまねし」で、本来であれば「青し」が「青い」になったように「あまねい」という言葉になる筈でしたが、廃れてしまいました。「言葉は生きている」とよく言われますが、それは単語にとっては熾烈な生存競争でもあって、その過程で「あまねい」は生き残ることができなかったわけです。もう一つの例は「そうあって当然だ」という意味の「~べし」です。こちらはやや畏まった文語表現として、連体形の『べき』とともに平成の御代まで生き残りました。それが「日本人のあるべき姿」とか「断固主張すべし」などという表現です。さらに「べし」が幸運だったのは「し」が「い」となった形すら方言には残ったことで、それが東北、北海道などでよく耳にする「べい」(あるいはそれが短くなった「べ」)です。かく申す私も道産子なので、子供の時によく友達に「早く宿題やって遊ぶべ」などと言っていたことを今では懐かしく思い出します。(2012年2月)
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「マイソン」ろ発音 ⇒ 「マイソン」と発音
たぶんかうなのだと思います。
けつしてあら探しではありません。気がついたので書きました。
行つたらいいのにの「行きや~ええやないかい」の「行きあ~」や、「行きや~」は、いまでも紀伊半島では使はれてゐるはずです。
誤植のご指摘、ありがとうございます。私の打ち間違いでチエ蔵さんに非はありません。早速直しておきました。
「あまねし」と「べし」の例から、他に何かないか…と考えたところ、「さやけし」という言葉を思いつきました。
これも古語で現代まで生き残ったとはいえない言葉ですが、仮に生き残ったとしたら「さやけしい」でしょうか?
「しい」で終わる言葉では、エ列の言葉はあるのでしょうか。
私も北海道出身です。
「行くべー」など子供の頃は使っていたものです。
コメント、ありがとうごいざました。おっしゃる通りで、
「さやけし」もエで終わる例外的な形容詞です。漢字表記は『明る(さや)けし』で、現代に残っていたら「さやけしい」ではなく『さやけい』でしょうね。終止形「し」や連体形「き」の子音が落ちて「い」となりました。かくて「赤し」「赤き」の現代の語形が「赤い」一つに収斂しました。旧制高校の校歌など探してみたら「明(さや)けき月の~」など出てきそうですね。
たまたま「あまねし」と「さやけし」と似た語形の二語が並びましたが「し」で終わることと「エ列」には直接の因果関係はないように思います。
確かに「さやけき光」などと言いますね。
「しい」の形容詞ではありませんでした。
ご説明と用例、ありがとうございました。勉強になりました。
擬態語・擬音語もエ段は少ないですね。
○カラカラ
○キリキリ
○クルクル
×ケレケレ
○コロコロ
最近なら以下の用例もありますね。
○ダラダラ
○ヂリヂリ(ジリジリ)
○ヅルヅル(ズルズル)
○デレデレ
○ドロドロ