将門ブログ

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幸手市(埼玉県)

2006年10月02日 | 縁地探訪’埼玉県)
先月から二回に分けて、埼玉県幸手市の「将門伝説」を訪ねてみました。

【幸手の地】幸手市
将門は、岩井の決戦に敗れ幸手に馬を走らせて藤原秀郷・平貞盛連合軍と最期の戦いとなり、この地で切られて亡くなったと伝えられています。将門滅亡の原因は、桔梗の前の裏切りによるものとして、この地では桔梗を忌避し桔梗が育たないといわれています。

【木立(きだち)の地】幸手市木立
幸手市木立の地は、昔、公達(きんだち)村と称していて、公達とは将門の子孫を指し、その人々が隠れて棲んでいたことからこの名が付いたといわれています。

【八幡神社】幸手市木立
木立集落の中央に「八幡神社」があります。将門の生地の八幡宮を祀ったとされていますが、実際は将門の乱に藤原秀郷がこの地に布陣したところともいわれています。

【浄誓寺・将門の首塚・薬師堂】幸手市神明内
神明内にある「浄誓寺(じょうせいじ)」の本堂裏手の小塚の上に、「将門の首塚」といわれる五輪塔があります。将門が死滅したとき、臣下が密かに首級を持ち去り、この寺に埋葬して菩提を弔ったと伝えられています。また、この寺の境内・入口入って左に、薬師堂があります。この薬師堂は、将門の信仰が篤かったといわれています。


【赤木明神】幸手市神明内
浄誓寺の南方に、鳥居と小さな御堂の「赤木明神」があります。将門が戦死したのはこの地(赤木)で、将門の血潮で一本の立ち木が真っ赤に染まったといいます。この赤色は幾日も色が褪せず、そればかりか赤木の血から夜な夜な衣冠束帯の人が現れて付近を徘徊したといいます。このことから、この赤木を御神体として将門を祀り赤木明神と称したと伝えられています。また、この付近の田んぼでは、将門の首が切られその首が飛んできて落ちた田だ、といわれていて地元の人たちは「飛んぴっ田」と呼んでいます。

【宝聖寺】幸手市平須賀
この寺の寺宝に、将門降伏に用いたという松虫鈴(銅鈴)があります。この鈴は、弘法大師の遺物で松虫の音色からこの名が付いたといわれています。また、この寺には、藤原秀郷が将門討伐を祈願して奉納したという、秀郷所持の「不動尊の絵」と「軍配団扇」が伝えられています。さらに、この地の旧家の船川家は、天慶年中、将門討伐のため熊野から朝廷軍に加わり、ここに来てそのまま留まり今日に至るといわれています。

次は、杉戸高野台駅の近くにある永福寺(杉戸町下高野)を訪ねてみました。
【永福寺】杉戸町下高野
この寺は、関東三大施餓鬼の一つ「どじょう施餓鬼」で有名です。往古、「阿弥陀寺」と呼ばれていました。この寺の第十三世の妙喜尼は、武蔵権守・興世王(将門に味方した)の妾であったといわれています。この妙喜尼は、天慶三年(940)、自ら焼死して寺も焼け落ちたといわれています。その二年後、寺は代十四世、抜山優婆塞によって再建されました。この抜山は、将門が都に居た折、或る女に産ませた子であったという。父・将門の死ののち東国に下り、亡父の戦場で死者の菩提を弔いました。この里に来た際、土中からの光によって、焼失したとされる当寺の阿弥陀仏の木像を発見して、寺を再興することができたと伝えられています。この阿弥陀仏木像は、神亀三年(726)、行基菩薩の作だといわれています。また、この寺は後に長福密寺と名乗っていましたが、徳川五代将軍綱吉がわが子に「長福」と名づけたため、それに遠慮して永福寺と名乗るようになったといいます。

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/取材:源六郎/平将門関連書籍将門奉賛会


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