ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

澁澤龍彦さんは名前に力があった。

2010年10月13日 | Weblog
「科学と抒情」赤瀬川原平著より。

これは絵日記という形で書かれている部分にあったフレーズだった。そして、そのあとには「渋沢竜彦となると違う人に見える」と続いていた。同じ読み方でも画数や使われる文字で印象もかなり異なってくる。

確かに文字の雰囲気で重みも違って見えてくる。さらに人物本人もあとの名前だと軽く思えてきてしまう。名前に力があると感じたのは仕事にも重みがあったからではないだろうか。

一般的なことになってしまうが、特に人の名前は読むのも書くのも難しい。身近なところでは、齋藤の「齋」にもいろいろな字体があって大変だ。斉なら簡単だが、齋だったり齊だったりすると手書きの場合は実に面倒だ。たしか6種類ほどあったろうか。

いつか名前に「寿」という文字がある人がいたが、実際は「壽」いやもっと複雑な漢字だったかもしれないが、ご本人はスラスラと書いているのを見て感心してしまったことがある。

また、澁澤さんにもどるが、氏は赤瀬川さんの千円札裁判の時には証人として出廷してくれたという。これは澁澤さんが亡くなったときの絵日記だった。そこには、黒と白の表紙の本が描かれていた。

関係ないが、かつてある雑誌で澁澤さんの書斎の写真を見たことがあるが、実にクラシックな感じがして味があった。(いまこの部屋を探してみたが、その雑誌が何であったのか、どこに行ったのかは思いだせない。)

飲水体験は水信仰のはじまりでもあった。

2010年10月12日 | Weblog
「科学と抒情」赤瀬川原平著より。

この水信仰というのがちょっとおもしろい。赤瀬川さんは22歳のころ、胃潰瘍の治療のためと思って、朝起きてすぐに大量の水を飲むことを勧められたという。しかし、それ以上に胃潰瘍はすすんでいて、結局手術するはめになったと語る。

しかし、健康体になってからも朝の大量飲水は欠かしていないという。水といっても緑茶だったり、その後はハトムギ茶、梅こんぶ茶と変わってきていた。

とくに酒を飲み過ぎて二日酔いの朝などは、緑茶を飲むほどに頭はすっきりしてきたという。つまり大量のお茶療法だと思っていた。その時は緑茶信仰だったわけだ。

朝起きて大量の水を飲むと、体の中が洗われると感じているようだが、なんだか自分にはできそうもない。水分をとりすぎると胃がだるくなりそうな気もするし。食事する前に満腹になったらどうなるのだろう。むしろ体調が悪くなりそうだが・・・

科学と抒情というのはコドモ心の二大勢力である。

2010年10月10日 | Weblog
「科学と抒情」赤瀬川原平著より。

この本を購入したのは、もう15年ほど前だったが、たまたま隣の部屋の書棚を見たらこの一冊の文庫本が目に入ったので読み返してみた。すっかり本の存在も忘れていたのでタイトルが新鮮に思えた次第。

何か所にも棒線が引かれたり、書き込みがあった。しかし、読み返してみると何でそこに線を引いたのか分からない部分もあった。きっと当時と今では関心が変わったのだろう。と、前置きが長くなってしまった。

さて、タイトルのフレーズは、“文庫本のためのあとがき”の部分にあったものだ。筆者によれば、ここでの“コドモ心”とは、シロート、アマチュアといい換えてもいいようだ。

ここで、赤瀬川さんは自身が関心があるカメラを引き合いに出していた。プロなら重くてもゴツくてもキズがあっても、まず結果第一のカメラを選ぶという。しかし、アマチュアは、結果よりむしろそれを持つ満足度で選んだりするらしい。(それは確かに言える)手触り、重さ、姿の美しさなど「必要以上に」こだわってしまう。

そして、科学は「必要」のほうに属して、抒情は「必要以上」に属しているという解釈のようだ。これで、ようやくこの本のタイトルの意味が理解できた次第。赤瀬川さんはいつも目の付けどころが面白い。

平凡な仕事でも、それを“遊び”に変えてしまえば、・・・

2010年10月09日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

このあとには、「凡人にはできない結果を生み出せる」と続いていた。まあそこまでいかなくても、仕事が遊びと思えるくらい楽しく出来れば、当然ながらいい結果は望めそうだ。

逆にどんなに才能が豊かでも、取り組む仕事を楽しめなければ、100%の力を発揮できない。そこで、遊びの感覚で仕事をするために必要なのが“ガキの感性”だという。

ここでは北野武監督について触れていた。世界的な映画監督としての北野武の仕事には、ガキの感性が存分に発揮されていると齋藤氏はみている。

ヒットするかどうか、高い評価を受けるかどうかというリスクはあるものの、そのリスクを遊びのスリルとしているのだ。齋藤氏は、これは気合いの入った壮大な遊びと解釈していた。

一般にはガキから大人になるにつれて、そんなバカバカしいことはできない、と思ってしまうもの。しかし、仕事をゲーム感覚で楽しめることで、ある意味好結果も期待できそうだ。それがブレイクスルーにつながればいいのだが。

不愉快な刺激は、ある種の“エサ”だと思えばいい。

2010年10月08日 | Weblog
「天才になる瞬間」齋藤孝著より。

この不愉快な刺激の一つの例として、「キミにはムリだ」というのがあった。しかし、齋藤氏はそれは、自分の能力を開花させるチャンスでもあるという。

これは筆者自身が「子どもを教えることはできない」「英語はムリだ」といわれたときの経験からでもあった。逆に奮起して小学生を対象にした塾を主宰し、『英語を「じゅげむ」みたいにおぼえちゃおう!』という本まで書いていた。

エサだけもらっておいて、エサを与えてくれた人のことは無視するのがいいようだ。だから不愉快な経験は忘れるより、それを打ち消すほどの結果を出すための発奮材料と考えればいいことだった。

簡単に表現すれば、【不愉快な刺激】→【怒り】→【仕事や作品】となる。こんなふうにプラスに変換できればいいわけだ。

大別して三種類のブランドが、棲み分けをしながら活動している。

2010年10月07日 | Weblog
「ブランド広告」内田東著より。

まず、この三種類のブランドとは「EDLPブランド、キャラクターブランド、ファッションブランド」というものだった。といっても一般にはなじみがない。

次にその説明をしてみよう。EDLPとはエブリデー・ロー・プライス(=毎日が低価格)のものだった、例をあげればわかる。ユニクロ、吉野家、無印良品などがある。100円ショップも当然入るだろう。

キャラクターブランドとは、強力なマーチャンダイジング力を駆使して、独自の個性をアピールするものだった。その代表にコカ・コーラ、ソニー、トヨタなどが入っている。マクドナルドはこれにも入るがEDLPにも入っている。

またファッションブランドは、主に高級品のイメージがある。シャネル、カルティエ、ブルガリなどが入る。このブランドが低価格のモノを扱うとブランドイメージが崩れてしまうようだ。贅沢品の部類だろう。余裕がある人やたまに贅沢をしたいときにはいいのだろう。

今はスーパーでもユニクロレベルの低価格商品を扱っていることもある。すると、必ずしもEDLPの店に行かなくても、いいことになってしまう。さらに商品の信頼度を考えるなら、デパートでは高級衣料品、貴金属、家具から実用品や食料品まで幅広く豊富な中から選べ、買い物を楽しむことできる。



マス広告とウェブサイトの見事な連携プレー・・・

2010年10月06日 | Weblog
「ブランド広告」内田東著より。

これはマス広告のテレビCMで“起・承”のストーリーを見せて視聴者をひきつけておき、その後の“転・結”の部分はインターネットで楽しんでもらおうというものだった。

これを専門用語ではクロス・メディア・ファンクション(=横断的メディア機能)という手法らしい。あまり気がつかなかったが、マス広告とウェブサイトを一体化した広告表現手法は行われているようだ。

確かにウェブを身近に感じている人には有効な方法だろう。そういえば、以前ある缶コーヒーのCMが気になったので、そのメーカーのホームページを見たところ、さらにいくつかのパターンを楽しむことができたことがある。

またテレビ番組を見ていると、「詳しくは番組のホームページをご覧ください」という言葉はよく聞かれる。そして一般の広告でもほとんどどこかしらに、その会社のホームページアドレスが掲載されているもの。

メーカーにとって、それを見て訪れてくれる消費者はありがたいものだろう。一方、消費者にとっては、訪問してみると意外に楽しい発見があったりする。これもウェブのいいところかもしれない。

コストの削減と新鮮なブランドが企業の命運を握っている。

2010年10月05日 | Weblog
「ブランド広告」内田東著より。

筆者は「ブランド力(りょく)、とは、発信力と言い換えてもよい」と述べている。またブランドを維持するためには、つねに発信を続けなければならないようだ。

すでに世界のトップといわれるブランドさえも、つねにマスコミを通じて次々と新鮮な情報でイメージ戦略を繰り返している。つまりいつでもブランドを新鮮に保つことは企業努力の要素でもあったのだ。

ということは、その企業にそれなりの体力がなければそんな努力は継続できなのだろう。今や大企業だからといって、安心はしていられない。ブランドイコール信用とは言えなくなったようだ。

あの優良とも思われ学生のあこがれの会社だったJALさえも瞬く間に、信用を失墜してしまった。コスト削減のために希望退職を募ってもまだまだ足りないようだ。企業の命運は分からないものだなぁ~。

愛用者がいままでどおりのブランド・コミュニケーションを望んだ。

2010年10月04日 | Weblog
「ブランド広告」内田東著より。

ここでは、桃屋のCMについて触れていた。三木のり平のアニメーションCM、「なにはなくとも江戸むらさき」が放映されはじめたのが、なんと1958年だという。東京タワーの完成と一緒だった。

のり平のイメージと桃屋のイメージはまったく切り離せないものになっていた。ところが、三木のり平は1999年に亡くなってしまった。桃屋の顔とまでなったのり平は消費者から同じキャラクターでのCM継続の要望が多かったようだ。それが、上記フレーズにあげたものだった。

さいわいなことに、本人はいなくてもアニメーションンなら登場させることはできるのだ。しかし、問題は声だった。ところが、息子ののり一は親父そっくりの声だったという。それで問題なく継続できたのだ。

桃屋も長い年月ををかけて作り上げたのり平路線を継続できたのはラッキーだったのだろう。やはり一度消費者に受け入れられたブランドイメージは簡単に止めてしまえば、それまでの努力が無駄になるということかな。

CMではないが、アニメと声優で思いだしたのが「ルパン三世」だった。当初(1971年)からルパンの声優を務めていた山田康雄氏が1995年に亡くなってから、ものまねの栗田貫一が正式にその後を継いでいた。さすが声はよく似せていて実にスムーズに引き継がれたものだった。イメージをいかに大切にしたかがうかがえる。

偉大なマンネリと陰口を叩かれようが、・・・

2010年10月03日 | Weblog
「ブランド広告」内田東著より。

数年前に購入した一冊だったが、また読み返してみた。すると、意外にもちょっと気になるフレーズが目についた。上記のあとには、次のように続いていた。

“~華やかな流行などには目もくれないで、コツコツとブランドの積立貯金に精を出すことだ。”この部分もまた面白いと思えた次第。

で、どんなものがその偉大なマンネリかといえば、たとえば“土用の鰻”の日だった。これは平賀源内の発明と言われるが、江戸時代から今に至るまでずっと続いている。

もっと最近では、リポビタンDは40年にもわたって、“ファイト一発!”と叫び続けている。実にロングランの広告表現だ。もうこうなるとマンネリズムをとっくに超えているとも思える。会社の方針が一貫しているからできることだろう。

ところが、場合によってはそのブランドの担当責任者が変わったりすると、方針が変わって新しいことをやりだしたりする。すると、今まで蓄積してきたものが一気に失われてしまう。これは失敗のもとだろう。

たとえば、阪神タイガースの選手は縦じまのユニフォームで虎のマークの帽子をかぶる。黒と黄色はタイガースカラーともなっている。実にブランドとして一貫したものを感じる。別に阪神ファンではないが、もしこれを変えたりしたらつまらないものになってしまいそうな気もするな。

日本人に未来への希望を与えていたのは「3つのI」。

2010年10月02日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.9月号より。

このテキストの最終回のテーマは「道」。そこでのショートコラムのなかで、講師のパルバースさんが述べていたことだった。3つのIとは、何なのかちょっと気になった次第。

次のように説明されていた。「新しいことを積極的にやってみようというinitiative(起業心、率先力)、人間のingenuity(発明や工夫の才能)への確信、柔軟なintelligence(知性、知力)」だった。

戦後日本の発展もこの3つが絡んでいたのだろう。原材料が不足する日本は、それらを輸入し加工して輸出に力を入れていた。今でもそうだが。また勤勉さ、手先の器用さが多くの新しいものを生み出していた。

さらに、次のアドバイスがあった。「道のことなど心配するな。その上に刻まれるあなたの一歩一歩について考えなさい」と。まずは目の前の仕事を地道に着実にこなしながら努力を重ねて進めということだろう。

人生は自転車だ。倒れたくなければ走り続けよ。

2010年10月01日 | Weblog
「ギフト~E名言の世界~」2010.9月号より。

意外にもこの名言を残していたのはあの有名なアルベルト・アインシュタインで、これは1930年2月5日に息子エドゥアルトへの手紙のワンセンテンスだった。

実にシンプルで分かりやすいたとえになっている。もしこれが自転車操業ということになれば、大変なことだ。英語では次のような表現になっていた。

“Life is like riding a bicycle. To keep your balance you must keep moving.”と。二つ目の文のkeep・・・balanceはバランスを保つことという意味で、イコール倒れないということになっている。

ここでの“走り続けよ”、とは働き続けろという意味だろうか。また健康維持に気を配れという意味だろうか。また、いい仕事をするためには努力し続けろとも思えてくる。“走り続ける”、一つをとっても意味が深そうだ。