ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

ぐうたらしていても、鬘(かつら)をかぶればスイッチON!

2008年09月15日 | Weblog
「メトロポリターナ」2008.9月号より。

“本日も「すっぴん」!”というコーナーで京都、祇園の芸妓、山口小喜美さんの話だった。彼女にとっては、座敷が終わってから家に帰り、帯をはずし着物を脱いで畳んで、最後に鬘を脱いだ瞬間がスイッチがプツンと切れる瞬間だという。鬘は重くてきつくて大変そうだ。

鬘を“はずす”ではなく、“脱ぐ”というところが、いかにもしっかりと体の一部に張り付いているかを感じさせる。まるで、五輪の競泳の選手が体を極度に締めつけているレーザーレーサーの水着を脱ぐ、と同じ感覚ではないだろうか。

ここにも書いてあったが、“芸妓さんは地毛ではなくて鬘なんどす”とあった。舞妓さんの場合は地毛らしい。「芸妓」という仕事では、お客様の前では、常に盛装して背筋をぴんと伸ばして、お客様をおもてなししなくてはならない。

つまりそれが、ONの状態で、鬘を脱いだ時がOFFになっているようだ。これはちょうど、彼女にとってはエアコンのリモコンでスイッチを入れたり、消したりするのと同じことだと言っている。山口さんには鬘こそがスイッチだったのだ。

だから、「今日はしんどいなぁ」とぐうたらしていても、鬘をかぶればスイッチON!だったのだ。私にとって、それはネクタイになるかもしれない。(とはいっても猛暑の間はクールビズを率先しているが。)人によっては革靴だろうか、背広だろうか。また主婦は何をスイッチにしているのだろうか。

学問というのは知的エンターテイメント。

2008年09月14日 | Weblog
「R25」2008.9.11号より。

こう言っているのは吉村作治先生だった。この人=(イコール)エジプト発掘というイメージがある。それもそのはず、もう50年以上もブレずに追求してきているからだろう。しばしばマスコミにも登場してエジプト発掘について熱く語っている。

学問が知的エンターテイメント、といえるのは自身で進んで楽しんでやってきた経験からそう感じるのだろう。もし、それが義務感でやらされるものなら、とてもエンターテイメントどころではないはず。

例えば、物が発見されたら、それが何であるかを確定する。→なぜその物がそこにあるのか。→検証し解釈する。→自分なりの答えを証拠をあげながら論理を組み立ててゆく。つまりそれはある意味ドキュメンタリーの推理小説を読むよなものだという。きっとそれが、知的エンターテイメントといえる所以だろうな。

吉村先生がエジプトに魅せられたのは、10歳の時に小学校の図書館で読んだハワード・カーターの『ツタンカーメン王の秘密』がきっかけだったようだ。そして、まだ先生が10代の頃、エジプトを志す考古学者は皆無だったという。「エジプトで発掘」という夢を65歳になる今でも続けているとはすごいこと。

高校時代は演劇部と山岳部に所属していたという。山岳部はエジプトへ行くための体力作りのつもりだったようだ。東大を目指して浪人中に落語家にもなりたかったという。幸い(?)そちらの方の才能はなかったらしい。

吉村先生はおばあちゃんに言われた言葉を忘れていないという。それは「お前は変わっているから、平凡になっちゃだめよ」「人が左に向いたら右に向きなさい」だった。実際、そのようにして生きてきたらしい。それにしても、吉村先生みたいに熱く語れる何かをもっているだろうか・・・

一般的な基本というのは所詮先入観・・・

2008年09月13日 | Weblog
「プロフェッショナル」仁志敏久著より。

べつに基本をおろそかにしてもいいという意味ではないようだ。この章のタイトルは「プロの基本とは」というものだった。プロなら基本をはるかに超えたところにある何かをつかむことではないだろうか。

仁志は「地道な努力は基本を作るし、やがてはコツとして身につきます。コツというのはその人の悟りともいうべきものですから安っぽい“基本”とは深さが違うのです」と述べている。

また木内監督は次のようにも言っている。「どんな打ち方したっていいんだよ。その打ち方の天才になればいいんだから」と言われて、すぐに思い出すのは現役時代の野茂投手のトルネードと言われた独特の投法だったり、イチロー選手の打撃フォームですね。(一時、振り子打法というのもやってましたね)

このような独特のスタイルでも周りからは抜きんでているということは、それらの選手には理にかなっているという証拠でもありますね。一見短所に見えるところも、それを打ち消そうとすれば一緒に長所もなくなってしまったりする。

最後にちょっといい言葉に巡り合った。「自分にしかできないことを見つけだしてそれを磨き、自分だからできることとして披露することが、選手としての価値を高めるのだと思います。」

体験が語らせる味のあるセンテンスだと思った次第。この一文だけは特に何度も繰り返して読んでしまった!私たちの日常の仕事のなかでも、こんなことが活かせたらいいんですがね・・・

「ダメなやつは、ダメなの」

2008年09月12日 | Weblog
「プロフェッショナル」仁志敏久著より。

これは仁志の高校時代の恩師でもある木内幸男監督の口癖だった。勝負の世界の実に厳しさを感じさせる。常総学院の野球部員は常時数十人はいるもののレギュラーメンバーになれるのはその一部でしかない。どこでも同じだろうが。

木内監督はいまや名物監督の代表といってもいいだろう。甲子園では常連になっているようにさえ思える。常総学院では、3年生になる前に“コーチ”を命ぜられる選手は、試合には出ることのない練習の補助となってしまう。

つまりそれは「ダメなやつ・・・」ということとイコールだった。「お前がこれからどんなに努力をしてもレギュラーにはなれない」という意味でもあった。そんな選手はだんだん練習にも参加しない幽霊部員となってしまうようだ。

まあ、勝負にこだわる監督だからそんなやり方を徹底してるのだろう。それはある意味3年生だから、早めに夢に見切りをつけてムダな時間を過ごさず進学、就職などの進路を考えろ、という意味合いもあるらしい。

才能と実力がある1年生がいれば、上級生といっても当然レギュラーから外されてしまう。こんなことは勝ち負けにこだわるすべての世界には当然つきもの。いくらベテランと言っても現時点の力がなければダメ・・・なんですね。

“魅せるチャンス”は、“見られるチャンス”に変化してしまう・・・

2008年09月11日 | Weblog
「プロフェッショナル」仁志敏久著より。

まだ現役プレーヤーの彼がこんな本を出しているとはちょっと意外だった。しかし、自分の経験を通してプロとしての心構えが真面目に語られている点が好感が持てる。上記のフレーズの前には「準備が不足していれば、」という言葉があった。

しばしば攻撃は最大の防御とはいわれるが、彼は“守備こそが防御”だという。まさに正論だろう。野手にとって打球は獲物と考えられている。エラーはその獲物をとり逃してしまうということになる。

そして、ちょっとしたエラーが相手チームの大量点につながり、結果として試合に負けてしまうことはしばしばあることだ。よく、あのファールボールさえ捕っておけば・・・と見ている方も残念に思うこともある。

だからこそ、守備でエラーを少なくするためには知識、経験、勘が必要になってくるのだろう。これらすべてが準備と考えているに違いない。外野からの返球でホーム上でのクロスプレーは最もエキサイティングな瞬間でもある。

守備も素晴らしいものには魅せられる。きれいに決まったダブルプレーなども見ていて気持ちがいいもの。とくにそれがひいきのチームならなおさらだ。ところが、エラーなら見られるミスとなってしまい大違いだ。

時としてうまくいけばファインプレー、失敗すれば無謀なプレーとも言われることもあるが・・・。その判断は素人にはわかりにくいかも。いずれにしても、きれいな流れるようなプレーには無駄がないな。

「武」が日本文化の中の最大の輸出品目・・・

2008年09月10日 | Weblog
「代表的日本人」齋藤孝著より。

まずは、嘉納治五郎という名前を聞いてすぐに、日本の柔道の創始者だとわかる人はどれほどいるだろうか。かつていろいろな種類の柔術があったが、それを一つの柔道という形式としてまとめ上げ講堂館柔道を創設した人物だった。

しかし嘉納は単に柔道を広めただけではなくむしろ日本を代表する教育者だった。そして文武両道を狙いとした教育の一環として柔道を教えていたのだ。教育が先にあって次に柔道がきていたということになる。

今では日本から世界の柔道になっている。むしろ日本より世界での方が盛んではないだろうか。五輪でも日本は容易には勝てなくなってしまったし。嘉納が世界に広めたスポーツが五輪の正式種目になるとはすごいことでもあるな。

小さい頃から英語とドイツ語も勉強していたという。嘉納自身は東京大学(東京帝国大学)を出た国家的エリートだった。そして若い頃から学習院で教えながら自分で道場を運営していた。また東京高等師範学校の校長を27年間も務めていた。ここは教員養成の総本山だった。

ついでながら、夏目漱石が松山に行って教鞭をとったのも、嘉納に言われたのがきっかけだった。もし行かなければ「名作『坊ちゃん』も当然生まれてなかった。それは漱石が松山で教師をした経験が作品の元になっているからだ。

さらには、講堂館の道場開きの際には勝海舟も来て、その素晴らしい道場に感動して揮毫までしていた。いろいろな歴史上の人物とも交流があった嘉納が、学校の教科書にも出てきてはいないのが不思議なくらいだ。

鬼気迫る“聴き歌”。

2008年09月09日 | Weblog
「歌謡曲の時代」阿久悠著より。

たまたま昨日、『北の蛍』は阿久悠作詞だったと書いていたので、阿久さんがこの詞のイメージについて語っていたのを思い出した。この本の第二章「歌もよう 演歌の風景」と題した部分で触れていた。

蛍が出てくるからと言って夏ではなかった。詞の中では、山が泣く、風が泣く、雪が泣くとなっていて季語とは関係なく冬だという。『北の蛍」は昭和59年(1984年)森進一のヒット曲だった。その年の紅白歌合戦で歌われてもいる。

阿久さんはその年の紅白を仲間と一緒にテレビで見ていて、紙吹雪まみれになって熱唱した森進一の鬼気迫る姿が忘れられないらしかった。その迫力にお酒を飲むのを休み、おしゃべりを中断して聴き入ってしまったらしい。つまり聴き手をねじ伏せるほどの歌い方だったのだ。

この歌詞ができる際の話があった。当時、東映の岡田茂社長に「映画の題名を考えてくれないか」という用事であっている。いくつかの案を提出して「北の蛍」が選ばれたという。そのタイトルのイメージを問われて話すとその後監督が決まり、脚本ができ映画製作に入っている。

そして、五社監督から急いで作詞をしてほしいといわれて書いたものだったようだ。詞の原稿を作曲家の三木たかしに渡したとき、体を震わせて興奮してくれたと述懐している。歌詞はたしかに迫力がある。「もしも私が死んだなら 胸の乳房をつき破り 赤い蛍が翔ぶでしょう・・・」となっている。

この本のなかで、阿久さんはこのような圧倒的な聴き歌が世に流れなくなって淋しい、と語っている。この年(昭和59年)『北の蛍』は日本レコード大賞金賞と日本作詩大賞を受賞していた。

胸を突き破って蛍が飛んでいくというイメージ・・・

2008年09月08日 | Weblog
「代表的日本人」齋藤孝著より。

とくに演歌好きの方でなくても、これだけでかつて森進一がヒットさせた『北の蛍』を思い出すかもしれませんね。この作詞は昨年亡くなった阿久悠さんでした。

齋藤氏はこの歌は激しい情念を歌った和泉式部の和歌をふまえたものと考えていた。その和歌とは「物おもへば 沢の蛍も 我が身より あくがれいづる 魂かとぞみる」だったのです。

そして同じく近代では千年の時を経て与謝野晶子が感情の解放という面で女性歌人の第一人者となっている。要するに情念のすさまじさを歌いあげている点で和泉式部とも共通しているようだ。

晶子のパワーは短歌だけでなく、結婚して12人の子供を産み育て、さらに社会的な活動に活発に参加していた。実に明治女の強さ、底力さえ感じさせます。この千年を振り返ってみれば、最も存在感を示した日本女性の一人でした。

この本の第一章は「与謝野晶子の女性力」というタイトルだった。名前だけは知ってはいても実に知らないことばかりが多いと痛感させられましたね。

世界中が注目した試合で鳴り響いたホイッスル。

2008年09月07日 | Weblog
「未来を切り拓いたモノ創り」より。

この試合とはサッカーワールドカップの決勝戦で、そこで使われたホイッスルは東京の下町の工場で作られたものだった。ホイッスルは審判がゲームをさばく際の必需品だ。

サッカーばかりではなくその他いろいろなスポーツでも使用されている。学校の体育の授業や運動会、警察官の交通整理、鉄道関係では車掌、さらに防災、護身用、時にはミュージシャンにも使われている。

野田員弘さんの創り上げたホイッスルの優秀さは世界各国で認められている。その証拠には世界45か国、1,500万個も輸出されていることからもわかる。丁寧で細かい作業で出来上がる製品は見た目も音も素晴らしいようだ。

サッカーなどではスタジアムを揺るがすほどの大歓声があがるが、そのなかでもしっかりと遠くまで音が響かなければならない。主審は1試合で12キロも走らなければならない。その距離は選手よりも長いらしい。そのなかで軽く息を吹き込むだけで高く大きく響くホイッスルは大切な道具だろう。

審判は野田さんのホイッスルは吹いていて本当に疲れないと絶賛している。ワールドカップで公式採用されるということは、とてつもなく大きな信用があることだとわかる。ということはイコール野田さんの作るホイッスルは、世界のトップブランドといえる。

実力を認めてくれた相手に最高品質のホイッスルを提供できることは実に素晴らしい。もちろんそこまで行くためには長年にわたって創意工夫を重ね、多くの試練を乗り越えてきたことも事実だ。

発想、情熱、技術は三位一体!この三つが化学変化を起こしたとき、不可能が可能に!

2008年09月06日 | Weblog
「未来を切り拓いたモノ創り」より。

この本のページを捲っていくと、いきなりどこかで聞いた、いや知ってる人の名前が出てきたのでちょっと驚きだった。この章のタイトルには「現代水族館の礎を築いた型破りな公務員」とあった。プロフィールには「水族館の巨大水槽を作った男」とあって杉浦宏さんの写真もあった。

何年か前にたまたラジオを聴いていたとき「全国こども電話相談室」があったので、その時にはお魚博士だなというような印象を持っていた。しかし、初めて巨大水槽を作った人とは知らなかった。

杉浦さんには15、6年ほど前に数回お目にかかったことはあった。しかし、まさかそんなに大きな仕事をされている方だとはまったく知らなかった。この本で初めて知ったくらいだった。

過去のガラスの水槽では強度面から大きさに限度があった。しかし、それを透明なアクリル板で作ろうという発想で試行錯誤した、結果ようやく大型で透明度のある水槽を作ることに成功したのだった。

また同時に水のろ過も大変な作業だった。それも上野動物園の飼育係という公務員自分のクビをかけて成し遂げていた。実に情熱のこもった仕事をしていたのだ。

数百トンの水に耐えられ透明度を保てるアクリル板、急速濾過機の設置などの技術によって初めて巨大水槽が可能になっていた。一見すると何気ない巨大水槽にも、成功するでに苦労の連続があったことを知ることができたな。

まだ発売されてもいないゲームの全国大会・・・

2008年09月05日 | Weblog
「未来を切り拓いたモノ創り」より。

このゲームとはオセロだった。1973年4月に「オセロ」の日本選手権大会が帝国ホテルで開催されていた。商品自体が発売前だから、当然人なんて集まるわけはないと思う人が多かったようだ。

ところが、これを企画した長谷川五郎氏はかなりの自信をもっていた。そして、当日は参加者、見物人が合わせて200人以上詰めかけたという。

「オセロ」は長谷川氏によって発案され作られたゲームで、現在各国に、5000万人から6000万人のファンがいるようだ。世界共通のゲームとなっているのがわかる。そんなゲームの始まりは牛乳瓶のフタだった。

たいていの人は一度くらいはどこかでこの簡単なゲームを楽しんだことがあるだろう。何しろルールが簡単だから子供でも数分で覚えてしまえる。私も数か月前に親戚の小学一年生と真剣にやってみたら意外にも強すぎて簡単に負けてしまった。

純粋な遊び心から生まれたゲームも、成功すれば世界的なゲームにまで発展してしまうという証拠だろう。世界で通用するシェークスピアの戯曲をモチーフにしたネーミングもよかったのだろうな~。

パピプペポの音には、歯切れよい語感が気持ちを引き立てる効果がある・・・

2008年09月04日 | Weblog
「フロイトで自己管理」齋藤孝著より。

それにしても、この一冊では読み進むうちにいくつもの“ちょっと気になるフレーズ”に出会った。これは意外に誰にでも使えそうな技だと思ったので記しておこう。それは、要するに大げさに表現することで自分および周囲のテンションを上げるというようなものだった。その際、上記のようなパピプペポの音が入っているものが多いと気付いたのだ。

思い込みでも、もしそれを信じればいい結果になって現れるかもしれない。たとえば、「ノープロブレム!」「パーフェクト!」「カンペキ!」実際に問題があろうが、完璧でなかろうがかまわない。ハードルを下げてみることがポイントだった。

口に出すことにこそ意味があるようだ。相手も「そんなこと言ったってね~」と、心のなかで半ば冗談で言っていることは百も承知でかまわない。私が時どき使うのは、お土産などいただきその場で口にして、すぐに「こんなにウマいもの食ったことない!」というフレーズだ。(もちろん言える相手は限られるが。)

齋藤氏はくだらないちょっとした思いつきでも「ジーニアスだ」とまるで呪文のように唱えているらしい。それで自分の気分を盛り上げているのだろう。いい意味でのオーバーな表現はその場を盛り上げる効果もあることは確かだ。パピプペポ・・・そういえば「ファイトー!イッパーツ!」っていうCMもありますね。

意識していないものは見えない。

2008年09月03日 | Weblog
「朝日新聞、日曜版」2008.8.31付けより。

「スポーツラボ」というコーナーでサッカーのジャッジをする副審の能力について書かれていた。試合中はかなりのスピードで動きまわっている。好プレーとファウルの判断は紙一重だろう。しかもボールの動きは人の動きの数倍も早い。

そんな中でも走りながらジャッジを下さなければならない審判は大変な熟練を必要とする仕事だ。当然ながら審判の能力はさまざまだろう。視覚機能が高いことは必要だが、それだけでは十分ではない。情報収集能力が高くなければ正確な判断は下せない。

いい審判はどこを見るべきかがわかっているのだという。瞬時に目からプレーに関する情報を集めて判断する能力がすぐれているのがいい審判と言える。たとえファウルの場面でも、それを受けた側に有利なら流れを止めないのも力量らしい。

いい審判は目配りがいいというのが結論のようだ。要するにボールの動きだけにとらわれないことだった。守備ラインの位置、パスを出そうとする選手と受けようとする選手、そしてボールと複数の情報を同時に意識してオフサイドなどの判断を下している。

実際の日々の仕事ではそれほど真剣に集中して物事を判断することはないな。かなりぼけーっとして機会を失っていることが多そうだ。たとえ目を開けていても、意識してないと大切な情報も見逃している・・・に違いないな。

「人生、縁がすべて。あいつが高給取りになったのはオレのおかげ」

2008年09月02日 | Weblog
「日経新聞、夕刊」2008.9.1付けより。

楽天の野村監督の言葉だった。“あいつ”とは阪神タイガースの赤星憲広選手のことだった。赤星(32歳)は推定年棒1億8000万円だが、それもプロの一流プレーヤーとして活躍できているからだった。

その元を作ったのは野村監督は自分との縁があったからだという。赤星は愛知の大府高校時代から俊足は注目されたものの、170センチ66キロと小柄だったためにプロ入りは見送られていた。

亜細亜大を経てJR東日本にいる時にシドニー五輪の代表入りしてから、たまたま2000年に代表候補選手の強化一環で阪神の春季キャンプに参加したのが運命の分かれ道だった。当時阪神の監督だった野村氏の推薦でノーマークだった赤星はドラフト4位で阪神入りしている。

それは、野村が現役の南海の捕手時代に通産1065盗塁の阪急、福本豊に苦しめられたからだった。つまり足があればかき回せる野球ができることが分かっていたのだ。野村は赤星の俊足の価値を認めていたからこそ欲しい選手だった。

赤星はその期待を裏切らず、入団1年目から39盗塁で盗塁王と新人王のダブル受賞していた。また2003年からは福本以来となる3年連続60盗塁以上をマークしている。

そんな、赤星の背番号は53で「誤算」読めるから入団時は屈辱を感じたらしい。でも、考えようでは51のイチローと55の松井の中間だから、けっこういい背番号ではないだろうかな~

籠もることのできる場所を持つこと・・・

2008年09月01日 | Weblog
「フロイトで自己管理」齋藤孝著より。

ちょっと意外で面白いと感じたのは、齋藤氏にとって籠もれる場所はベッドの上だという。そこが氏の基地で、そこからあちこちに遠征しているようなイメージを持っているようだ。使っているベッドのマットのクッションが体にあっているらしく、横たわっていると沈み込んでいく感じでそこが妙に落ち着くらしい。

自分だけの基地または空間を持つことは意外に自分を解放してくれそうだ。たとえば、同僚が知らないような喫茶店で休憩しているときなどもそんな気持ちになれる。もし男の子なら大きな段ボールに入り込んだりすると自分だけの空間だと感じて面白いようだ。

そういえば、かなり以前俳優の谷啓さん(クレージーキャッツ)が自分が一番落ち着くのは押入れの中だと言って、自宅の押し入れに入る場面をテレビで見たことがあった。それはドラマではなく実際の自宅だった。きっちりとした自分だけの書斎があれば、そのスペースに籠もれればいいのだろうが、なかなかそんな余裕がある人は少ないかもしれない。

話はややそれるが、プロレスラーにはマスクマンというわれる選手がいるが、そのマスクをかぶっていることでそれなりのファイトをしていたのを思い出した。武藤敬司は素顔の時は正統派のレスリングをして、顔にペインティングを施してグレート・ムタと名乗っていた時はかなり荒っぽいファイトをしていた。

これなども、マスクやペイントで別の演技者(?)になるという意識が働いているためだろう。意識して別のものになりきって力を発揮するためには、このようにある意味何かで自分を囲うことも一つの技のようにも思えてくる。鎧を身につける(=籠もる)と考えれば、別のパワーが生まれる可能性もありそうだがどうだろう。