ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

空白の達人・・・

2008年07月02日 | Weblog
「暮らしの風」2008.7月号より。

“夏の空白”と題して茂木健一郎さんが書いていたエッセイのなかにあったフレーズだった。この空白とはなんだろうと想像してみた。つまりそれは、普段しなければならない仕事、勉強、課外活動などたくさんの“ねばならないことから解放された時間”のようだ。

私の子どもの頃の夏休みはほとんど空白状態で今の子どものように塾や習い事に追われるということがなかった。かなりのんびりと過ごしていたように思う。しかし社会人になると、長い休暇はとれない。またそれが当たり前だと考えるようになってしまった。

茂木さんは、脳の働きを考えると「空白」は「ゼロ」という意味ではないという。脳のなかの神経細胞は常に自発的に活動しているようだ。そしてその隙間さえも埋めようとしていると語る。だから、空白の時間があれば創造性も育むことになるのだった。

しばしば、遊ばなければいい発想も生まれない、などということを聞いたことがある。これも同じような意味合いがあったのだろう。そこで、ダーウィンのことを引き合いに出していた。彼が「進化論」という構想を得たのも、5年間にわたるビーグル号での航海という「空白」があったからこそだと考えている。

そして、「種の起源」という名著は、5年間という夏休み(=空白)の結果生まれたと茂木さんは考えている。自由な発想はやはりしばられているうちは難しいのかも。現実に話をもどせば、たとえ1日でも好きなことでワクワクして過ごせる時間を持てれば“空白の達人”といえそうだが・・・


深海魚と出会えるくらいに深くもぐらなくては、物事は身につかない・・・

2008年07月01日 | Weblog
「私塾のすすめ」齋藤孝・梅田望夫著より。

いきなり深海魚という比喩が出てきたので、インパクトがあり面白い表現だと思った次第。仕事にしてもなんでも長年やっているからと言って、それを深く知っているとは限らない。けっこう惰性でやっていることも多いことに気づく。

振り返ってみれば勉強も仕事も深くやったとは思えない。ただいろいろな経験はしては来たものの、身についたものなどほとんどなかった。齋藤氏はプロ野球のキャンプみたいなものが好きらしい。それはつまり合宿であり「なんとか月間」のようにあるテーマをある一定の期間に成し遂げようというものだ。

学校でいえば、すべての教科を同じようにはできないなら、「この1か月は単語だけ」「この1か月は数学だけ」というふうに集中することで深い勉強ができたと振り返る。そうすることで深海魚に出会えるらしい。

物事を身につけるということは、そのように深く潜ったときになる。ある意味、オタクに似ていそうだ。多くの人は深く潜る前に浮かびあがってしまうのだ。ここに齋藤氏の友人のエピソードがあった。

大学時代その友人は司法試験浪人をしていたが「いろんな用事があって、勉強に集中できない」と言っていた。そこで、齋藤氏はまた「この世に用事なんて一つもない。・・・それは司法試験に本気じゃない。・・・」と続けたのだ。

そして用事を切るようにアドバイスをしたという。その友人がやってみると、用事がなくなって集中できたらしく、試験に受かり感謝されたようだ。これを聞いていた梅田氏は、時には「義理」なども捨てることは大事なことだと述べていた。自分を集中できる状態に置くにはそれなりの努力も必要そうだな・・・