ちょっとマンネリですが・・・

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鬼気迫る“聴き歌”。

2008年09月09日 | Weblog
「歌謡曲の時代」阿久悠著より。

たまたま昨日、『北の蛍』は阿久悠作詞だったと書いていたので、阿久さんがこの詞のイメージについて語っていたのを思い出した。この本の第二章「歌もよう 演歌の風景」と題した部分で触れていた。

蛍が出てくるからと言って夏ではなかった。詞の中では、山が泣く、風が泣く、雪が泣くとなっていて季語とは関係なく冬だという。『北の蛍」は昭和59年(1984年)森進一のヒット曲だった。その年の紅白歌合戦で歌われてもいる。

阿久さんはその年の紅白を仲間と一緒にテレビで見ていて、紙吹雪まみれになって熱唱した森進一の鬼気迫る姿が忘れられないらしかった。その迫力にお酒を飲むのを休み、おしゃべりを中断して聴き入ってしまったらしい。つまり聴き手をねじ伏せるほどの歌い方だったのだ。

この歌詞ができる際の話があった。当時、東映の岡田茂社長に「映画の題名を考えてくれないか」という用事であっている。いくつかの案を提出して「北の蛍」が選ばれたという。そのタイトルのイメージを問われて話すとその後監督が決まり、脚本ができ映画製作に入っている。

そして、五社監督から急いで作詞をしてほしいといわれて書いたものだったようだ。詞の原稿を作曲家の三木たかしに渡したとき、体を震わせて興奮してくれたと述懐している。歌詞はたしかに迫力がある。「もしも私が死んだなら 胸の乳房をつき破り 赤い蛍が翔ぶでしょう・・・」となっている。

この本のなかで、阿久さんはこのような圧倒的な聴き歌が世に流れなくなって淋しい、と語っている。この年(昭和59年)『北の蛍』は日本レコード大賞金賞と日本作詩大賞を受賞していた。