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⑧霊友会破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 霊友会は、久保角太郎がシャーマニズム(霊媒信仰)・法華経信仰・先祖供養を混交した新教団を作ることを目的とし、兄嫁小谷キミを霊能者に仕立て上げ、創立した在家宗教団体です。霊友会では「仏所護念の御本尊」と称する各自の″祖霊″を礼拝の対象としていますが、本部の釈迦殿には釈迦像、伊豆の「弥勒山」には弥勒菩薩像が祀られています。
 霊友会では「霊界と娑婆世界とは表裏一体」と説き、先祖が成仏していれば子孫も幸せになり、先祖が迷っていれば子孫も苦難を受けると主張しています。そこで霊媒者が霊界から仏様等を呼び出して指導を受け、また先祖の霊からは苦しみの因縁を聞き、それらの指示や因縁にもとづいて懺悔滅罪を祈り、祖霊を供養することによって、先祖も自身も悪い因縁を断ち切り、霊の加護を受けて家族の幸福と国家の安康が得られるというものです。
 また、教団では「天地のすべては妙と法の二つから成立している」といい、女性は陰にして妙を、男性は陽にして法をあらわすとし、妙法がそろってはじめて諸精霊に対する真の供養ができると主張し、その供養方法としては、男女ともにわかる限りの先祖の名前を本部に提出させ、その名をもとに生・院・徳の文字の入った戒名を本部が新たに付け、それを本部と家庭の両方で祀って供養をします。
 具体的にいえば、会員家庭にあっては、まず「総戒名」なるものを祀り、この総戒名と霊鑑の前に、コップに入れた水・線香・ロウソク・花・供物を供え、白地の片タスキ(前に「南無妙法蓮華経 霊友会本部」後ろに「南無妙法蓮華経 教菩薩法仏所護念分別広説仏正」と書いてある)をかけて、朝夕三十分ほどのお経と題目を上げます。
 会員は、本部で毎月行われる「在家のつどい」や「夕べのつどい」に参加したり、体験談を語り合う「法座」に出席します。また、弥勒山での大祭、セミナーや身延七面山恩師御宝塔参拝登山修行にも参加をします。
 特に「おみちびき」と呼ばれる布教活動は、最大の功徳をもたらす修行とされています。
 霊友会では、西田無学が主張した「仏所護念」の意義付けをそのまま踏襲しており、本来、法華経に説かれる「仏所護念」とは″正覚の仏が護り念じてこられたところ″との意味であるのに対し、西田は″死んだ人の霊のいる所を護り、念ずること″と間違った解釈をし、自らの先祖供養法の根拠とした。霊友会の教義は、このような誤った解釈をもととしています。
 霊友会では先祖の霊を本尊としています。しかし先祖といっても、私たちと同じように一人の人間として苦しんだり悩んだりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがありません。いいかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではなく、死者が子孫を守ったり苦悩から教うこともできないのです。したがって、先祖を本尊として祀り、祈願や礼拝の対象とすることは仏法上、大いなる誤りであります。
 先祖供養方法について、霊友会では″総戒名を祀れ″と教えていますが、教団が拠り所の経典としている法華経のどこにも、「生院徳の文字を使った戒名をつけ、それを崇めよ」などとは説かれていません。
 法華経の教えを真に会得・実践されたのが日蓮大聖人であり、その真実の教えを今日正しく伝えるのが日蓮正宗です。是非、お近くの
日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。

 



⑨立正佼成会破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 立正佼成会は、庭野日敬と長沼妙佼が霊友会を離れて新たに創立し、庭野の姓名判断・方位学・易学等と長沼の霊能によって、戦後急激に教勢を拡大した在家教団です。
 佼成会の本尊は、長沼妙佼の霊感によって、
①発足当初は、霊友会の曼荼羅に守護神として毘沙門天を加えたもの
②中央「南無妙法蓮華経」右「天壌無窮」左「異体同心」と書いた旗(昭和一五年四月)③前記の旗を掛け軸にし、守護神として大日如来を加えたもの(同一七年五月)
④「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」と庭野が書いたもの(同二〇年一〇月)
⑤「日蓮聖人の大曼荼羅」と称して、海野が書き写したもの(同二三年三月)
と変遷し、さらに長沼が亡くなった翌年、庭野は「今までは方便の時代であり、今こそ、久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊を本尊とすべきである」と宣言しました。
 会員の場合は、入会当初は総戒名だけを祀り、信仰が進んでくると御守護神や釈迦の絵像を祀り、幹部級になると大本尊といわれるものになります。
 佼成会が総戒名を用い、法華経によって先祖供養と懺悔滅罪することは、霊友会の教義と実践法を受け継いでいますが、具体的な修行方法は長沼の霊感によって決定されたり、真言の九字や水行などの密教的要素の強い修行も行い、さらに布教手段として庭野の姓名判断・易学などを用います。
 信者は、仏壇に総戒名を祀ってその手前に霊鑑(過去帳)を置き、朝晩に聖典と称される経典を読んで先祖の供養をし、佼成会に入会しても〈それまでの宗教を捨てる必要はない〉〈自分の檀家寺や氏神を大切にするように〉と教えられ、入会した者は″法座″と呼ぶ少人数のグループの一員となり、サークル方式で互いに懺悔や悩み事について話を交わし、そこでさまざまな指導が行われます。
修行の中でも″お導き(布教)″と本部通い(労働奉仕)で功徳を積むことも強調されます。
 佼成会では本尊を六回も変え、長沼の″神のお告げ″によって本尊を変えたといっていますが、仏教において教理経文をもって厳格に定めるべき本尊が、きわめていかがわしい″お告げ″なるもので簡単に替えること自体、仏教とは無縁の邪教です。庭野は久遠の釈迦像を本尊とし、それが教主釈尊の本懐であり、さらに日蓮聖人のご本懐でもあるといっていますが、大聖人が、「仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」と断言されているように、釈尊の本懐は法華経以外になく、しかも法華経のどこにも「釈尊像を本尊として祀れ」とは説かれていないのです。
むしろ、大聖人は、「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし。(中略)此は法華経の教主を本尊とす、法華経の正意にはあらず」
と、明確に″釈尊を本尊とすることは法華経の正意ではない″と説かれています。
 佼成会では会員に庭野が勝手に造った本尊に向かって唱題させています。しかし大聖人が、「日蓮等の類の弘通する題目は(中略)所謂日蓮建立の御本尊、南無妙法蓮華経是なり」と仰せのように、大聖人が顕わされた御本尊以外のものに向かって、どれほど題目を唱えても、正しい功徳とはなりません。
 法華経の教えを真に会得・実践されたのが日蓮大聖人であり、その真実の教えを今日正しく伝えるのが日蓮正宗です。是非、お近くの
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⑩真如苑破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 真如苑はヽ伊藤真乗・友司夫妻が「だれでも霊能者になれる」と主張し、設立した真言宗系の在家教団です。
 教団では、信徒に対して「お救け」「歓喜」「奉仕」の「三つの歩み」を義務づけており、「お救け」とは布教・勧誘行為、「歓喜」とは金銭の寄付、「奉仕」とは教団の諸活動に労力を提供することです。
これらを行うことによって、自身の持つ「悪因縁」を断ち切ることができるとし、さらに、この三つの歩みを行う基盤となるのが、霊能者の指導により菩提心の向上を目指す「接心」と呼ばれる修行です。「接心」とは具体的には信者が、教祖の長男・次男の霊と感応した霊能者と対座して霊能者が話す「霊言」(ミーディアム境)を聞き、問題を解決したり心を浄めたり霊能を開発するというものです。
教団では、教祖・真乗の長男・智文と二男・友一は信徒の苦悩を代わりに受けて早世したものと教えており、信徒の病気が治ったり苦難から救済されるのはこの二人の働きによるものとして、「両童子様」と呼称して祀っています。この接心修行には、「向上接心」「相談接心」「特別相談接心」「鑑定接心」などがあり、「向上接心」は、白身の修行として月一回は必ず参加すべきものとされ、「相談接心」は、様々な悩みを解決するための指導を受けるもの、「特別相談接心」は、相談接心を特別に行ってもらうもの、「鑑定接心」は、事業・縁談などを易で鑑定してもらうものです。これらの接心に参加するには必ず寄付金が必要で、何百回もの接心や、霊位を向上させるための「相承会座」に参加することによって、信者は霊能を磨き、仏性を開発することができるとしています。また霊能の維持・開発のため、霊能者同士が接心するという「苑内接心」も行われています。信徒の実践行としては、朝夕に寝釈迦像の写真本尊の前で涅槃経の「名字功徳品」を読誦し、「南無真如一如と尊き御教えを念じ奉る」という「一如祈念」を行っています。
 真如苑では、神がかりの霊能者から霊言を聞いたり、指導をうけることを奨励し、また、霊能者になることをすすめています。しかし、心理学からみれば、心身に強いストレスを与えれば、誰でも神がかり状態になる可能性があるといい、また、神がかりの者が発する霊言なども、深層心理が言葉にあらわれているにすぎないといいます。したがって、霊能者による接心などはまったく無意味なことであり、かえって人を悪道におとす行為であります。特に、真如苑の霊能者にはマニュアルがあって、これによって霊言を述べているといいます。これでは霊言などとはいえません。また、霊能者になるには相当の金員が必要とされており、金で買ってなれるような霊能者は、とても霊能者といえないでしよう。 また真如苑では、「霊界にいる先祖の霊魂が苦しんでいるので、その霊のたたりで現在がよくない。これを除くために、真如苑で護摩や施餓鬼の供養をするように」と進めています。しかし、仏教では死後の生命は法界にあって前世の因果を感じながら、縁にあってまた生じると説き、因果を無視した霊界や霊魂の存在を否定しています。霊界や霊魂などを利用して信徒を脅迫し、供養を強要するのは、明らかな邪義であります。
 日蓮大聖人は「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず」と、「霊能」のようなものは、人を誑かす魔の所業であると教示されています。
大聖人は人々の救われる真実の教えを説かれています。是非、お近くの
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⑪生長の家破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 生長の家は、谷口雅春の「真理の書かれている言葉を読めば病が治る」等の主張に基づき、膨大な書籍を発行し、会員に購読させる出版宗教です。また谷口雅春の思想には宗教・哲学・心霊学・精神分析学などの教説が取り込まれていることから「宗教のデパート」とも呼ばれています。
 生長の家では「大宇宙の本体者の応現、または化現である生長の家大神」を本尊としています。実際には、総本山の龍宮住吉本宮には住吉大神を祀り、その神体として両刃の剣を安置しています。道場や集会室には「生命の実相」、「実相」などと書された額や掛軸を掲げ、「実相とは唯一の真理を意味し、あらゆる宗教の本尊の奥にあるもの」と教え、各自の祖先伝来の神棚・仏壇をそのまま祀ることを認めています。
 教団の教典は、谷口雅春の著した多数の書籍であり、教団では、教祖の教えを「唯心実相哲学」と呼び、それを「タテの真理」と「ヨコの真理」に大別しています。タテの真理とは、すべての人間が神の子であり、人間は神にして如来の最高の自己顕現であり、すべての善徳に満ちた久遠不滅の存在であり、これが人間の真実の相であるといいます。ヨコの真理とは、心の法則のことであり、現実世界は、ただ心の現す所(唯心所現)の世界であり、心によって自由自在に何でも現すことができるといいます。たとえば、病気にかかっても「人間本来病気なし、病気は心のかげ」との真理を知り、実相の完全さを信ずるならば、すべての病は消え、完全な至福の世界が顕現すると主張しています。
 雅春は「神は宮の中にはおらぬ」と主張しながら、総本山龍宮住吉本宮には住吉大神を祀り、崇めていることは自己矛盾であります。また、教団の神想観により、「物質はない、肉体はない、人間は神の命そのものであり、神の子である」という人間の本質(実相)を実感することが最高の悟りというならば、現実の存在の一切を否定した観念だけにとらわれた実体のない宗教であります。
 人間は心の思うことによって自由自在に貧・富・健康・幸福等何でも現す事ができるという唯心所現との教団の教えは、心だけを中心として現象を理解させる偏った教えであり、思い込みの姿、妄想の世界を生じさせ、精神に異常をおこしかねない邪教であります。 医学者である中村古峡氏は、著書の中で「ある有力な新聞の一訪問記者が、谷口雅春にぶつかって、『果して君の本さえ読めば、君が大袈裟に吹聴してゐる如く、病気が実際になほるのかい』と問うたところ、彼は頭を掻きながら、『いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売る為には、先づ多くの人々を集めねばならぬ。多くの人々を集める為には、何等かの方便を用ひなければならぬ』と答へたさうな」と記しています。要するに、生長の家は本の出版販売を目的とする商売団体に過ぎません。
 教団では「万教帰一」を主張し、″実相とは唯一の真理を意味し、あらゆる宗教の本尊の奥にある″としていますが、キリスト教では創造神をたてますが仏教では立てません。 このように各宗教の教理の内容を判断せずに、宗教の根源が一つであると決めつけ、万教帰一と主張することは独断に過ぎず、人々を誑惑するものに他なりません。
 日蓮大聖人は、教えには正邪があり、邪法を捨てて正法に帰依するように教示されています。正法たる日蓮大聖人の教えを伝えるのが目蓮正宗です。是非、お近くの
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⑫世界救世教破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 世界救世教は、大本教の影響を強く受けた教団で、一般に"お光さま"と呼ばれています。この教団は、「浄霊」と称する「手かざし」を行うことが特徴で、自然農法の食品販売や、熱海市(静岡県)の「MOA美術館」でも知られています。
 教祖・岡田茂吉は、はじめ「神から心霊を与えられた」とか「私の腹中には光の玉がある」などといい、また、ある時は「観音菩薩の力を得た」といいながら、後には「観音の衣を脱ぎ捨ててメシヤになった」など、そして最終的には、自分は釈迦・キリスト・マホメットの三大聖者を超越した神(神人合一)の立場であると称するに至っています。これは仏教や神道、さらにはメシヤを交えた御都合主義で、思いつくまま創作したものに他なりません。また教祖は、「神から力を授かった」といいながら、「神人合一」と称して、自分は三大聖者よりも上位で、神と同じであるともいっています。まさにそれらの内容は矛盾に満ち、支離滅裂・荒唐無稽であります。
 現在の教団は、この真の神を大光明真神と称して祭神とし、これと一体化した教祖・茂吉こそ世界人類の救世主であり「明主」であるとし、この大光明真神とは、この世を創造した主神の働きのうち、特に人類を救済し、地上天国・真文明世界を創造するために現れた神であるといっています。このことから教団では、病・貧・争を三大災厄とし、これらをなくして、健・富・和で真・善・美を完結させた「地上天国」という理想世界の実現を目指すとしています。
 教団での儀礼の実践は、「浄霊」が中心とされ、茂吉は、相手に「光」の文字を書いた紙を畳んで懐に入れさせ、それに向かって手をかざすことによって、自分の体内の光の玉からの「光波」が供給され、救済されると説いています。
 現在では、信徒の誰であっても取り次ぎ者として、教祖から与えられた文字など、「おひかり」と称するものを身につけ、病人や相談者に対して手をかざし、「光」をなぞる動作をすれば、苦悩の原因となっている霊の曇りを浄化させ、病気・不幸・争いをなくせるとしています。浄化とは、人間の体に残留する汚物が毒素となり霊の曇りとなることから、自然治癒能力によってこれを排除させようとするものであるといいます。浄霊・手かざしを行って、あらゆる苦悩の原因である霊の曇りをなくしたはずの教団で、跡目争いや内紛が続くのは、浄霊に効果がないばかりか、それを行う者たちが精神を曇らせている証しであります。また手かざしによって、大漁や豊作になったり、故障したエンジンがなおったなどと、奇跡を売り物にしていますが、このようなまやかしを信ずることが、返って不幸の原因になるのであります。
 また、健康に関連した「自然農法」を主張し、「MOAブランド」として流通・販売ししています。これらの浄霊や自然農法は、献金などとともに、信徒の修行・奉仕活動の中心をなしていますが、奉仕を続ける信徒は、最後に空しい思いをすることになることを知らなければなりません。
 日蓮大聖人は「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず」と、「浄霊」「手かざし」のようなものは、人を誑かす魔の所業であると教示されています。大聖人は人々の救われる真実の教えを説かれています。是非、お近くの
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⑬天理教破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 天理教は、中山みきによって幕末に創立された新興宗教の草分けともいうべき教団です。
他の新興宗教の成立過程と同じように、天理教も教祖の異常心理による神懸かり現象が開教の起因となります。中山みきは四一歳の時、神懸かりにあったとされています。
 その昔、釈尊が生老病死を救わんと志しての出家、また、世の乱れ、苦しみへの疑問解決のため出家された日蓮大聖人とは、もともとの出発点が違うことを、まず初めに知っておかなければなりません。
 教団では、信仰の対象として、「ぢば・親神天理王命・教祖中山みき」の三つを挙げています。「ぢば」は、親神が人間創造の際に最初に人間を宿した親里だとしています。
 「親神天理王命」は、人間をはじめ世界を創造した根元の神として、教祖中山みきの体を借りてこの世に現れ、世界中の人間を一切の苦から解放して喜びづくめの生活(陽気ぐらし)へと導き、守護すると説いています。親神は、キリスト教における神とよく似ており、この世を創造した創造主という概念になってます。
 また「教祖中山みき」は、死後もその命を「ぢば」にとどめて永遠に存在しているとし、親神による人類救済はこの「ぢば」を中心として行われるとされています。
 しかし、この万物創造の親神は、教祖みきに神懸かるまで一体何をしていたのでしょうか。親神の教えによってはじめて人類が救われるとするならば、それ以前の人類は救われないことになります。所詮、万物創造の親神は、中山みきが神がかりという精神医学でいう妄想の産物であり、因果を説かれる仏教には程遠い因行の無い外道神なのです。
 また、天理教では、親神が「どろ海中のどぢよを皆食べて、その心根を味い、これを人間のたねとされた」と述べています。しかし、「どじょうが人間のたね」などというのはあまりにも非科学的な教えであり、このような話が元となった宗教は人間を不幸に導く邪教です。
 また天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり、「人の幸せは物や金ではなく、心の安住が大事」と説き、教祖が全財産を貧しい人に施した事を、陽気暮らしの手本であるとし、信者は欲の原因となる金銭を親神に供え、教会に行き、人のために奉仕する事を実践の徳目としていますが、このような集金手法も新興宗教の特徴です。
 親神は、人間を助けたいとの親心で天理教を開いたとし、子である人間は親神の心を心として生きることが重要で、親神の思いにひたすら添うことが道であるとしています。そして、踊りや歌によって、陽気ぐらしの世界をこの地上に実現するといいます。
 天理教では、人間の肉体は親神から借りたもので、心だけが人間所有のものとして、親神の心を知ればどのような境遇でも心の持ち方一つで″陽気ぐらし″ができると主張しています。しかし、心の持ち方一つで真の幸福など得られるはずもなく、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、社会の安寧、また個々の将来は安泰でしょうか。それらを考えるとき、厳正な宗教教義でないことが判ります。
 日蓮大聖大の教えは「神懸かり」「どじょう」と違い、道理に基づいた因果が説かれています。また「陽気暮らし」と正反対の、人間の苦悩を正面から見つめ、苦難を乗り越えて人生を全うし、社会の安寧「立正安国」を説かれた真実の教えです。是非、お近くの
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⑭霊波之光教会破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 霊波之光教会は、大宇宙神の分神を自称する波瀬善雄が「霊波による病気治し」を掲げ、戦後に創設した教団です。
 善雄は、白身の病気を治す救いを求める中、神の声を聞き、病気が平癒したという経験から苦行を重ねたといいます。ある時、光(霊波)が体内に吸い込まれるという神秘体験をし、自ら大宇宙神の分神であることを悟り、大宇宙神から神と人間をつなぐ使命を託され、以来、身体から治療効果のある霊波を放射するようになったとされています。
 教団は、「人類救済・世界平和実現」を設立目的とし、何事も素直な気持ちで守護神・善雄にすがり、幸福を願うことによって、全ての悩み・苦しみから救われるというのです。
 「溺れる者は藁をもつかむ」といいますが、まさにこの教団は、病気という人の弱みにつけ込み、教線を拡大しようという詐欺的な集団です。
 病気治しの方法は、当初は密教的な九字を切るというものでしたが、波瀬善雄はいつの間にか自身の霊波(光)によって治癒するというようになっています。中心的な儀礼を簡単に変えることに象徴されるように、教団の教義や主張は一貫性がなく場当たり的なものです。
 この教団は教義らしい教義もなく、「ただ御守護神様におすがりすればどんな病気も治る」と安直に奇跡を売り物にしていますが、その因果関係は全く明らかではありません。 また、宇宙神を根本にしているはずなのに、「礼拝堂」には地球儀の上に立った教主像が祀られており、波瀬善雄という人間を拝む宗教となっています。善雄自身、心臓発作で急死しているように、所詮、奇跡の力を示すことができなかった凡人です。その者にすがりつき必死に拝むことは癡かな行為です。
 また教団は、世襲により善雄の長男が二代目になり、三代目も二代目長男に内定しているといいます。教団内で語られるように、善雄が病のなか各地の霊山を修行して歩き、やっと悟りを開いたとするならば、二代目・三代目は一体どのような修行をしたというのでしょうか。
 「人類の親たる宇宙神から霊波を受けるには媒介者がなければ受けられない」といいますが、それでは教主以前の媒介者は誰であったのか、教主以前の人類は理罪に苦しんでいたということは、それまで大宇宙神は人類を救おうとしなかったことになり、無慈悲といわなければなりません。人々が理罪を受けることは大宇宙神の罪というべきであり、このような神が本当に人類を救えるのでしょうか。
 信者は、各家の神棚に祀る「御神体御札」を通して代々の教主につながり、守護神からの霊波が送られるといいますが、なぜ守護神から直接霊波がつながらないのでしょうか。また、御札の有効期限が一年間であるとして買い換えさせたり、死者や信者本人の浄霊祈願と称して御札を買わせるのは、金儲け宗教そのものです。
 このように、ただ「霊波」によって人は救われるといっても、そこには何の根拠も道理もありません。日蓮大聖人は「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をただすべし。利根と通力とにはよるべからず」と、「霊波」のようなものは、人を誑かす魔の所業であると教示されています。大聖人は、経文、道理、現証の上から人々の救われる真実の教えを説かれています。是非、お近くの
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⑮幸福の科学破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 幸福の科学は、大川隆法が自ら「釈尊の再誕にして、救世主たるエル・カンターレである」と公言し、個々の幸福と社会全体の幸福を探求して恒久ユートピアを建設する、と称して設立した教団です。幸福の科学は「エル・カンターレ」を自称する、大川隆法を信仰の対象とし、隆法の写真を本尊として祀り信者に拝ませています。
 教団では、「正しき心の探究」をしていくところに「この世とあの世を貫く幸福が実現する」といい、その具体的な方法は、「愛・知・反省・発展の探求」の四正道であるとし、これらの実践によって各人が幸福になり、それを社会全体に広げていくことで世界的にユートピアが実現するといっています。

◆デタラメな隆法の霊言
 次々に出版した霊言集について、隆法は、「別に霊言集で問わなくとも、私が書いてもかまわないのですが、…大川隆法の名前で文章を書き、発表しただけでは、世の人々はなかなか信じてくれません」(新幸福の科学入門)と告白していますように、これらは単にキリスト・釈迦・モーゼ・天照大神・親鸞・道元・卑弥呼など多数の歴史上人物たちを勝手に登場させ、自分の思いつきを書き並べたものに過ぎません。しかも「死人に口無し」をよいことに、いいたい放題いっています。

◆幸福の科学は、宗教の名を借りた営利出版企業
 教団の主要な収入源は、隆法や教団発行の数々の出版物です。隆法著作の本は毎回ベストセラーを連発し、隆法の所得税も毎年というほど高額納税者番付に出ています。ベストセラーになる仕組みは、一般書店から教団や会員が多部数買い取るという方法で、当初教団では、隆法の本を一〇冊以上読まなければ入会できないとしており、いかに出版物の販売に力を入れているかが分かります。幸福の科学は、宗教団体というよりも、むしろ宗教の名を借りた出版営利団体というべきであります。

◆デタラメな隆法の予言
 隆法は『黄金の法』のなかで西暦二〇〇〇年の世界について、ノストラダムスの予言に基づき「世界の人びとは、前年の夏に起きた衝撃的な悪夢からまだ立ち直れないでおります」として、ニューヨークは機能をなくし壊滅的になっているといい、世界各地の情況を述べ日本も復旧作業が続けられているなどとまことしやかに述べていますが、何も起こらなかったことは衆目の事実であります。隆法は予言者でも霊能者でもないことは、この一事をもってしても明らかであり、所詮、大川隆法は宗教を利用した詐欺師といわざるをえません。

◆隆法は『日蓮聖人の霊言』のなかで、「相手の現状を千里眼と宿命通力で分析したあと、日蓮上人におうかがいを立て、霊言として回答を…」などと述べ「日蓮聖人」を登場させていますが、日蓮大聖人は『唱法華題目抄』に「魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と仰せられ、末法において通力などを売り物にするのは、人々を誑かす魔の所業であると教示されています。魔の権化である隆法が日蓮大聖人の教義を悪用することは言語道断というべきです。
 日蓮大聖人は、経文、道理、現証の上から人々の救われる真実の教えを説かれています。是非、お近くの
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⑯エホバの証人破折 (ものみめ塔聖書冊子協会)

2007-08-02 | 諸宗破折

 輸血を拒否することや、聖書の話をするために訪問することなどで知られるエホバの証人は、アメリカのチャールズ・テイズ・ラッセルの聖書の研究から起こした教団です。
 エホバの証人の信徒は、天地創造の神エホバを唯一の神とし、善人で地上を満たすことが神の意志であると信じ、現在の世界は犯罪や暴力、戦争、汚染等により苦渋に満ちたものであり、その原因は他宗派の聖職者や資本家、政治家たちであるとし、これらの悪を一掃するたるめに、間もなく「ハルマゲドンの大戦」、すなわち神の軍団と悪の軍団の終局戦争があり、神の軍団が勝つと言います。この時、信者は神(エホバ)の証人として戦いを見守ればよいとされ、このことから「エホバの証人」あるいは「ものみの塔」という名称になりました。また戦いの後、エホバを信じた人たちはキリストの統治のもとに、楽園となった地上で千年間を過ごすことができると言い、これが彼らのいう「千年王国」です。
 エホバの証人では、信者に規則が課せられています。たとえば長時間の伝道や週五回の集会(公開聖書講演会・ものみの塔研究会・会衆の聖書研究・神権学校・奉仕会)への参加が義務づけられ、そこで繰り返し聖書の解釈を教え込まれます。この聖書の解釈は既存のキリスト教と異なる点が多く、中でも、旧約聖書の「血を食してはいけない」を根拠として、輸血を拒否するように教えています。これは人命を尊重するので医療は受けるが、血は命を表す故に神聖なものと解釈するからです。このほか、選挙もエホバ以外の統治を認めることになるので棄権し、町内会の役員、公務員になることを禁止するなど、現実社会にそぐわない面が多くあります。

◆輸血拒否の問題
 輸血拒否の根拠となるのは、聖書の「生きている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、わたしはそれをすべてあなた方に与える。ただし、その魂すなわちその血を伴う肉はたべてはならない」(創世記九章三、四節)との教えです。しかし、輸血拒否が最初からの教えか、というとそうではないのです。教団発行の『ものみの塔』一九二七年十二月五日号にこの聖書の文がありますが、この時点では輸血拒否は決定していません。一九四〇年十二月二五日号の同誌には九五〇㏄の輸血をした婦人の体験が掲載されています。一九四五年七月一日号の同誌上で輸血拒否がはじめて発表されました。これは、ものみの塔誌発刊後六十六年後のことであり、もし、現在のエホバの証人の主張が正しいとするならば、それ以前の聖書の解釈には誤りがあったことになります。また、輸血拒否は血だけを神聖視する偏頗な考えです。

◆創始者のラッセルは「教えと行動のすべてが神の言葉(聖書)と一致していなければならない」としています。しかし、「ハルマゲドンの大戦」の年代を最初は一九一四年と予言し、それがはずれると、次は四二年、さらに七五年へと変更されたのは、無節操きわまりない虚言です。

◆エホバという神の名を自分たちの教団の名称に用いているが、これは旧約聖書にある「みだりに神の名を唱えてはいけない」との戒めに反する行為です。
 このように、エホバの証人は多くの矛盾に満ち溢れた、道理に反する邪教です。
 日蓮大聖人は、経文、道理、現証の上から人々の救われる真実の教えを説かれています。是非、お近くの
日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。

 



⑰神道破折

2007-08-02 | 諸宗破折

 古代において人々は、自然界の未知なる力に対して畏敬の思いを懐き、「カミ」なるものを想像し、さらには死者・先祖への追慕の念などから「祖霊神」を祀りました。さらには国家平定に伴って、豪族などが自らの立場の優位性を示すため「神話神」を創作することにつながり、さらに後世には功績をなした人をも「人物神」として祀る形に発展させました。このような神道は我が国、固有の信仰をつくり、教義体系が定まらないままに八百万の雑多な神を崇拝し、神社を中心とする多神教となっていきました。

◆自然神 自然界の諸現象に対して古代の人々が、畏敬と恐怖の念から想像力を巧みにし、生み出したところの自然神や生活神は、単なる観念的なものでしかありません。このような架空の神には、真に人々の生活を護ってくれる力はないのです。

◆人物神 歴史上で功績のあった人を人物神へと昇格させ、崇めていますが、その神とされる人物自身が、実際には自分の煩悩さえも解決できない一介の人であることを知るべきです。

 歴史上の人物の功績がいくら尊敬に値いするとしても、それをもって直ちに人々の願いを叶えてくれる力があるなどと考えることは、宗教としては誤りであります。

 ◆仏教で説く神 仏教の教典では日天・月天をはじめ梵天・帝釈天など多くの神を明かされていますが、個々の神を拝む対象として説かれてはいません。『法華経』の安楽行品に、「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」と、また陀羅尼品にも、「法華経を読誦し、受持せん者を擁護して、其の衰患を除かんと欲す」と、諸天の神々は常に正法である法華経と、その行者を守護することを明かされています。仏教では、仏と神の関係を仏(正法)が主で、神を従として説かれております。

 日蓮大聖人は『立正安国論』に、「世、皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨て、相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」と説かれ、法味に飢えた善神は天上界に帰ってしまい、神社には悪鬼・魔神が棲み、災難を起こす元凶となっていますと、仏法の道理を示されています。したがって神社信仰は、多くの災厄をもたらす結果となるのであります。

 あくまでもあらゆる神々は、正しい仏様の臣下の立場であり、その仏様を信じる衆生を護り、助ける事が神々の役目であります。王(主)である仏法を蔑ろにして、家臣(従)である神々を崇める事は謀反であり、従としての神のみを信仰することは本末転倒であり何の利益にもつながりません。 このように仏教では、仏(正しい本尊)に向かって南無妙法蓮華経と唱えることによって、はじめて諸天の神々が、その信仰者を守護すると示されているのです。つまり仏と神の関係を仏(正しい本尊)が主で、神を従として正しく説いています。

 是非、お近くの日蓮正宗寺院をお尋ね下さい。