こんにちは 岡本しょういです

京都の南部、和束町で日本共産党の町会議員をしています。町や議会などの情報をお知らせしています。

ゴムあたまポンたろう

2012-05-07 18:14:26 | こどもの本

ゴムあたまポンたろう

何か、何ともいえないような、面白い名前ですよね

絵本作家の、長新太(ちょうしんた)さんの作品で

実は、私が子どもに買った、初めての本のひとつです

子どもが生まれたばかりの頃、

どこだったか、絵本の展示会みたいな場に行った時に、この作品の絵が展示されていて、

とても気に入ってしまったんですね

いきなり、何の前触れもなく、

「とおくのほうから、おとこのこが、とんできました」も意外な展開ですが、

「あたまが、ゴムでできている、ゴムあたまポンたろうです」には、びっくりしてしまいました。

いったい、どこから飛んできたのかもわからないですが、

「やまに、ポン!とぶるかると、ボールのように、とんでいきました」でこのお話ははじまります。

何で、この子の頭は、ゴムなんだろう?

なんて、考えて見ても、仕方がないよ!と言わんばかりに、

次々と、面白くて、あるいみナンセンスな場面が続きます。

野球のバットのようなつのを持った大男

バラのとげ

ゆうれいの親子

ジャングルの木

ハリネズミ

ポンたろうは、いろいろなものにあたってどんどん飛んでいきます。

お話はとてもナンセンスですが、

絵はとてもカラフルで、楽しめます

古いお寺のある風景や、サバンナの動物たちの群れ、灯台の見える海の風景など

ため息がでるような、とてもいい風景には感嘆します

ポンたろうは、ゴムの木にたどりついて、休憩します。

1日、いっぱい遊んだ子どもの姿に見えますね

ポンたろうのお話は、夢の中のような、

子どもが考え付きそうな世界とでもいうのかな

長 新太さんの絵本は、そんな世界を感じるものが多いですね

特別な理由はないんだけど、好きになってしまう

ポンたろうは、そんなキャラクターだし、そんなお話です

 


魔女の宅急便

2012-04-19 10:30:38 | こどもの本

「魔女の宅急便」は、宮崎駿監督のアニメ作品として有名ですよね。

アニメは何度か観ましたが、なかなか面白いですよね。

そのアニメの原作がある事を、私はながいこと知りませんでした。

1~2年前に原作本があることを知って、いつか読みたいと思っていたのですが、和束図書室にシリーズがあって、借りてきました。

「魔女の宅急便」に、「続き」がある事も知りませんでした。
主人公のキキが、大人になって、結婚し、母親になっていく話もあるのですが、今回は、アニメの原作になった最初の話を読みました。

この話、そもそも角野栄子さんと言う方の作品で、日本の作品なんですよね。
絵も林明子さんで、子どもの絵本ではおなじみの方です。
私は、外国の作品だと、勝手にずっと思いこんでました。すみません。

主人公のキキは13歳の女の子。

「正真正銘の魔女」のお母さんコキリさんと、民俗学者で妖精や魔女の伝説や民話を研究しているお父さんオキノさんと暮らしています。

ああ、黒い猫のジジも一緒でした。

人間と魔女が結婚をして生まれた子どもが女の子の場合は、たいてい魔女として生きていくのが普通らしいですが、

「たまに嫌がる子もいるので」というのが面白いですが、10歳をすぎた頃に、自分で決めて良いとのこと。

決心がつけば、お母さんから魔法を教えてもらい、13歳の年の満月の夜を選んで、ひとり立ちする。

その相談をしているところから、この話ははじまります。

魔法といっても、どんな事でもできるわけではなく、たった2つです。
1つは、薬草を育てて、くしゃみ薬をつくる
2つ目は、ほうきで空を飛ぶ

なんで、これしかできないんだろうと思いますが、魔法の力が弱くなっているそうです。

ほうきで空を飛ぶというのは、魔女の面目躍如って感じですが。

もし、生まれた子が男の子だったら、魔女は無理にしても魔人?になれないのかなあ、と変な事を考えてましたが・・。

それはさておき、

ひとり立ちのときを迎えたキキは、相棒となる黒猫ジジと一緒に、ほうきに乗って旅立ちます。

そして、海のある大きなまち、コリコの町に降り立ちます。

町の人に、思っていたより歓迎されないので、ちょっと悲しい気持ちになるキキ。

でも、パン屋のおソノさんと出会い、コリコの町で生活するようになります。

そしてはじめたのが、何でも届ける「おとどけ屋」・・・おソノさんのアイデアで、「魔女の宅急便」と名付けられたおしごとでした。

宅急便をしていく中で、キキは、いろいろなものを運んだり、届けたりして、

その中で、いろいろな人たちと出会い、交流していきます。

続編で、大きな、かけがえのない存在になる、とんぼさんとも。

くわしいエピソードは省きますが、ひとつひとつのお話は、とても面白くて、爽快な印象をうけますね。

旅立ちから1年がたち、キキとジジは、いったん家に帰ります。

コキリさんとオキノさんに久しぶりに再会し、ちょっぴりホッとした日々をおくるキキ。

でも、5日もたつと、気持ちはコリコの町の事でいっぱいになり、気になって仕方がありません。

キキにとって、コリコの町は、すでにかけがえのない町になっていたんですね。

お父さん、お母さんとの生活や世界から、自分自身の生活や世界へ。

キキの変化、成長は、人間(魔女)としての自立の1歩を踏み出していく姿としてとても鮮やかで、力強く感じます。

父親として、いつか訪れる、子どもの巣立ちに思いがいきますね。

キキが帰宅して、コキリさん、オキノさんに話した言葉で、とても印象的だったのがありました。
キキが1年間の経験の中でつかんだ確信とも言える話ではないかと思います。
ちょっと長めですが、紹介しますね。

「かあさん、あたしちょっと考えたんだけどね、魔女はね、ほうきにばかり乗って飛んでちゃいけないんじゃないかって思うのよ。そりゃ、おとどけものはいそぐから、飛ぶのはしかたがないけど・・・でもときどきは歩いた方がいいんじゃないかしら。だってほら、歩くといろんな人と嫌でも話す事になるじゃない?おソノさんと会えたのも歩いていたからだし・・・あのとき悲しまぎれに飛んでたら、どうなってたかわからないもの。反対にむこうだって、魔女を近くで見れば、鼻がとんがって、口がさけてるんじゃないってわかるでしょ。それにお話もできるし、おたがいにわかりあえると思うの・・・」

この文章は、とても深いなあと思いますね。

私も和束に来た時は、誰も知り合いがいないし、地域の事もわからないし、
まさに、キキと同じような状態でしたね。
住民の方からすれば、魔女とはいかないにしても、山のものとも海のものともわからない存在だったと思います。

キキの言葉は、自分自身の事のように、共感してしまいますね。

ほうきに乗って飛んでいきたい、飛んでいる方が楽という気持ちになりがちだけど、歩いて、いろいろな人と出会い、話して、

そうすれば、わかりあえる、世界が広がる

人間の成長って何だろう?

そんな事を気づかせてくれる作品なのかもしれませんね。

ぜひ、続編も読みたいと思います。


しょうぼうじどうしゃ じぷた

2012-04-14 12:10:33 | こどもの本

「しょうぼうじどうしゃ じぷた」は、渡辺茂男さく 山本忠敬え

福音館書店から出ている絵本です。

とっても歴史の古い絵本で、1963年に出版され、1966年に 子どものとも傑作集として第1刷、

じゅんが2歳くらいの時に買ったのですが、その時は何と104刷!

あれから9年ほど経過してるので、今ではもっとかもしれませんね。

この絵本は、くりかえしよく読み聞かせしましたね。

サロンがはじまるので、久しぶりに読んでみたんですが、

「あーー、こんなふうに読み聞かせしてたなあ」と思いだしてました。

このお話の主人公は、ジープを改良した小型消防車の「じぷた」。

消防署では、はしご車の、のっぽくん、ポンプ車のぱんぷくん、救急車のいちもくさんが、大活躍していて、

大きな火事の時は出動できない、じぷたは、「自分だってできる!」って思いつつ、「うらやましいなあ」と、ちょっといじけています。

そんなとき、山火事が発生し、大きな車では消火に行けない事態に

署長さんが「よし、じぷただ、たのむぞ!」と、じぷたに出動命令を出します。

その時の、じぷたの誇らしそうな顔や、うれしそうな気持ちが伝わってきます。

山火事を見事に消したじぷたは一躍子どもたちの人気者になります。

誰もが活躍できる場があり、力を持っていること

必要のない人なんか1人もいないこと

必要とされる時のうれしさ、誇らしさ

そんな人間としての当たり前のありかたを、教えてくれているように思いますね。

すぐに読めるので、ぜひおすすめですよ。 


レオ=レオニ スイミー

2012-03-30 11:13:08 | こどもの本

議会が終わった直後に、何となしに手にとって読んでみました。

レオ=レオニの絵本も、子どもが小さい時によく読みましたね。

この「スイミー」も久しぶりに読んでみたんですが、レオ=レオニの絵本は、ある意味大人向けかも。

「スイミー」は、「ちいさな かしこい さかなの はなし」という副題がついているとおり、

1匹だけ、まっくろな、およぐのは誰よりもはやい、ちいさなおさかなのお話です。

ちいさなあかいさかなたちと一緒にくらしていたのですが、そこに、「おそろしい まぐろ」が「ミサイルみたいに」つっこんできて、あかいさかなたちを、みんな食べてしまいます。

1匹だけにになったスイミーは、海の底を悲しい思いで泳いでいました。

でも、スイミーは、海ですばらしいものと出会います。

「にじいろの ゼリーのような くらげ」

「すいちゅうブルドーザーみたいな いせえび」

「みたこともない さかなたち」

「ドロップみたいな こんぶや わかめの はやし」

「うなぎ かおを みる ころには、しっぽを わすれてるほど ながい」

「かぜに ゆれる ももいろの やしのきみたいな いそぎんちゃく」

実際、絵もとてもきれいで、おもしろいです。

無表情にみえる スイミーですが、よく見ると、微妙に表情が違うようにみえます。

そんなとき、スイミーは、いわかげに隠れている、ちいさなさかなのきょうだいたちを見つけます。

スイミーは「でて こいよ、みんなで あそぼう。おもしろい ものが いっぱいだよ」と呼びかけます。

でも、ちいさなさかなたちは、こわがって出てきません。

スイミーは言います。

「だけど、いつまでも、そこに じっと してる わけには いかないよ。何とかかんがえなくちゃ」

いろいろと考えたスイミーは、叫びます。

「みんな いっしょに およぐんだ。うみで いちばん おおきな さかなの ふりして!」

そして、離れ離れにならず、持ち場を守るというルールをみんなに教えて、ちいさなさかなたちは、1匹のおおきなさかなみたいに 泳げるようになります。

そして、まっくろなスイミーは、そのさかなの「め」になります。

1匹のおおきなさかなになったスイミーたちは、大きなさかなを追い出し、お話は終わります。

ちいさな さかなたちが 1つになって、おおきなさかなたちを追い出す

そんな痛快なお話に、子どもたちは、とても喜ぶのでしょうね。

でも、このお話は、それだけのことだけでなく、とても大事なことを教えてくれていると思います。

スイミーたち、ちいさなさかなたちは、子どもたちそのもの。

子どもたちが成長する社会、世の中は、とても厳しいですよね。

「おそろしい マグロ」が「ロケットのように」突っ込んできて、怖い思いをしたり、さびしい、悲しい思いをしたり、必ずそんな時を経験します。

そんな時、危険をさけてばかりで、チャレンジする勇気もなくなりがち。

私たち親も、「あれはダメ、これはダメ」と、「子どものため」という理由をつけて、危険やリスクを除去しようとしがち。

もちろん、危ない事やリスクをともなう事を、何でも自由勝手にやらせる事は、ただの無責任でしかないですね。

それに、スイミーが海の中で、いっぱい面白いものを見つけたように、世の中には、危険やリスクもあるけど、面白い事、素晴らしい事もいっぱいあって、世界は広がっています。

さあ、どうする?

スイミーは「いつまでも、そこに、じっとしてるわけにはいかないよ。なんとか 考えなくちゃ」と考えます。
そして、みんなが1つになる事で、世界に出ていく術を身につけました。

危険をさけるだけでなく、どうすれば乗り越えられるかを考え、世界を切り拓くことができる事の大切さ、そして、それは1人ではなく、仲間と力を合わせて、みんな一緒に切り拓く事ができる事の素晴らしさ・・・

スイミーは、そんなことを教えてくれているように思うんです。

だからこそ、スイミーは「ちいさな かしこい さかな」だと。

かしこさ って、テストで点数を取れるかどうかではなく、困難を乗り越える知恵、みんなと力を合わせ、つながり合う事ができる力だと感じますよね。そんな、しなやかな力こそ、子どもたちに育んでほしいものですね。

何か教育的なお話になってしまったけれど、そんな難しい話ではないかも。

面白いものがいっぱいある海の中で、どうすればみんなとのびのびと遊べるかを、必死に考えるスイミーの姿は、まさしく、子どもそのものってことかな。

 


でんでら竜がでてきたよ

2012-03-16 15:05:42 | こどもの本

和束図書室で見つけたもので、「でんでら竜」にひかれて借りてきました。

でんでら竜ばあ 出てくるばってん
でんでら竜ばあ 出ーてこんけん・・・・

今、何かのCMでも出てくる、おなじみ(かな?)のうたですね。

この本は、ありこちゃんという女の子が、でんでら竜の絵を、じゆうがちょうに描いた事からはじまる、

とってもかわいい、ファンタジックなお話しでした。

じゆうがちょうに描いた、でんでら竜の卵。

ありこちゃんのまくらで「温め」、でんでら竜のうたを歌っていると、

ペラペラの紙のでんでら竜が生まれちゃったんです。その名は、タブラッサと言いました。

タブラッサとは、真っ白な紙という意味だそうです。

その週間から、ありこちゃんは、お母さんになって、タブラッサを育てます。

お腹がすいたとわめくタブラッサに、紙に哺乳瓶を描いて、ミルクをあげたり、ぐちゃぐちゃに丸めた紙をおだんごにしたり、りんごにしたり、

そうこうしているうちに、タブラッサは、あっという間に大きくなって、空も飛べるようになっていきます。

ありこちゃんを背中にのせて、ビルの屋上に行ったり、大空を飛んで夜空を散歩したり、列車と競争したり、

うらやましくなるような場面が展開します。

この本の絵は、みんな版画で、とっても素朴で温かみのある雰囲気が素晴らしいです。

大きく成長した、でんでら竜は、故郷の長崎に還っていくんですが、このお話し、たった一晩の出来事なんですね。

まさに夢のような夜を、ありこちゃんは経験したんですが、

自分のところにもでんでら竜がこないかなあと思ってしまう、素敵なお話しでしたよ。

「でんでら竜がでてきたよ」は、理論社の本で、

おの りえん作  伊藤英一絵 です。

良かったら、読んでみてくださいね。


新美南吉「牛をつないだ椿の木」より

2012-03-02 11:57:26 | こどもの本

新美南吉と言えば、どんな話を頭に浮かべるでしょうか?

やはり「ごん狐」でしょうか。多くの方は、というか私もそうでした。

あとは「おじいさんのランプ」や「手袋を買いに」あたりも、「そう言えば」と思いますね。

ちょっと新美南吉さんの作品が読みたくなり、図書室でお借りしたのが、

新美南吉さんのいくつかの作品をまとめた「牛をつないだ椿の木」というタイトルの本。

金の星社から出ている「日本の文学」の中の第27巻です。

この本には、「屁」「おじいさんのランプ」「牛をつないだ椿の木」「花のき村と盗人たち」「川<B>」「鳥右衛門諸国をめぐる」

「天狗」「ごん狐」「手袋を買いに」「うた時計」「久助君の話」「うそ」「いぼ」13作品が収められています。

さっき紹介した「代表的」な作品以外では、どれもはじめて読んだ作品ばかりで、どれもなかなか面白いというか、いろいろと考えさせる中身を感じましたね。

その中で、いくつかについて、ちょっと感想です。

一番、印象的だったのは、冒頭に紹介されている「屁」という作品です。

春吉君という少年が主人公で、「屁の名人」とみんなから言われている石太郎君を軸にして話が展開します。

石太郎君は、学校での授業中をはじめ、いろいろな場面で屁をこいて、そのたびに、みんなが「石だ、石だ」と騒ぎ、先生も「いいかげんにしろ」などと注意している。

春吉君は、そんな石太郎君を、心のどこかで軽蔑する気持ちを持ちます。

が、ある時、お腹の調子が悪かった春吉君が授業中に、「音を立てずに」屁をしてしまいます。

屁の臭気に、クラスのみんなが「くせえ、くせえ」と騒ぎだし、先生も「誰だ」と怒鳴る。

春吉君は、いつも石太郎君がされているような「仕打ち」を受けると思い、緊張してちじこまります。

しかし、みんなは春吉君がしたとは思わずに、いつものように「石だ、石だ」と騒ぎます。

石太郎君は、濡れ衣をきせられた格好になりますが、自分ではないと言わず、いつものように笑っているだけ。

春吉君は、ホッとする気持ちもありつつ、正直に言うか言わないで「闘争」しますが、結局言えずじまいで、「気持ちに背負いきれぬほどの負担」を背負う事になり、「くやしさのあまり、泣きたいような気持ち」になってしまいます。

こんな経験、あったようななかったような、何となく、くすぐったくなる話ですね。
自分がやったのに、「自分がやりました」と正直に言えない、勇気がでない・・・そんな自分が嫌で仕方がないのに、どうしても言えない。
そんな、少年の葛藤が微笑ましくも感じるのですが、話はこれで終わりません。

春吉君は、この経験の以降、いつもの屁騒動が起こっても、それが石太郎君の仕業とは信じなくなります。
「石だ、石だ」と言いながら、本当は違う人が屁をしているのではないか、いや、そうに違いないと。

最後の方の文章を、そのまま引用してみます。

「そういうふうに、みんなの狡猾そうに見える顔をながめていると、なぜか春吉君はそれらの少年の顔が、その父親たちの狡猾な顔に見えてくる。大人たちがせちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きてゆくのは、この少年たちが濡れ衣を物言わぬ石太郎に着せて知らん顔しているのと、なにか似通っている。自分もその一人だと反省して自己嫌悪の情がわく。だがそれは強くない。心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きてゆくためには、肯定されるのだと春吉には思えるのであった」

ウ―ーン!と思わずうなってしまう最後でしたね。

人間としての正しいあり方っていうものは、学校ではもちろん口すっぱく教えられているし、人権尊重と言う名のもとに、大人の社会の中でも、言われる事です。

でも、実際は、なかなかそう簡単ではないし、そういう事の方が多いのが世の中の実情でもありますね。
それが、子どもの社会の中にも、入り込んで幅をきかせている。それに自己嫌悪を感じながらも、強くは思えず、肯定している自分がいる。それが大人になっていくという事なら、なんてせちがらいもんなんだろうとの春吉君の思いが伝わるようです。

ピーターパンの話で言えば、春吉君は「飛べなくなった」という事になるのでしょうか。

でも、そういう事を肯定する思いを認めつつ、基本的に否定的にとらえる春吉君の姿に、まだ「飛べる」子どものまっすぐさや、人間としてのあり方を大事にしたいとの願望を、強く感じましたね。

「屁」という作品だけでたくさん書いてしまいましたので、これくらいにしたいと思いますが、「花のき村と盗人たち」「鳥右衛門諸国をめぐる」「うた時計」「いぼ」なんかも、なかなか面白い作品だと思いました。

特に「いぼ」という作品も、子ども心に、ちょっとせちがらい、これも誰にも経験がありそうなお話しです。

「いなか」に住む松吉くんと杉作くんの兄弟が、「町」から遊びに来た、いとこの少年・克己くんと夏休みを過ごし、親交を温めます。町の子である、克己くんがいなかになじみ、松吉くんの「いぼ」を欲しがるほど仲良くなります。
ある時、兄弟は家のお使いで、克己くんの家に行く事になり、また克己くんと会える、遊べるとルンルン気分で出かけます。
でも、行ってみると、克己くんは兄弟に目もくれず、町の友だちと遊んでばかりで、冷淡な態度に終始します。

兄弟はすっかりショックを受けて帰路につくのですが、その途中で弟の杉作くんが口で「どかあん」と大砲の音をまねる遊びをしだし、松吉くんも一緒にやりながら帰って行きます。さびしい思いを、何とか乗り越えようと大きな声を出す兄弟の姿がとても愛おしく感じますね。

松吉くんは「きょうのように、人にすっぽかされるというような事は、これから先いくらでもあるに違いない。おれたちは、そんな悲しみになんべん会おうと、平気な顔で通り越していけばいいんだ」と考えます。

2人は「どかん、どかん」言いながら、だんだん明るい気持ちになって帰ります。

彼らは、まだ立派なピーターパンですね。

 


ピーター・パン

2012-02-24 09:12:50 | こどもの本

「ピーター・パン」は、これまた有名な存在ですね。

これは、ジェームズ・マシュー・バリというスコットランドの作家・劇作家の作品で、よく劇とかでも上演されてきたものです。

大人にならない(なりたがらない)永遠の少年・・

海賊フックとたたかう空を飛ぶ少年・・

ピーター・パンを読んだことがない私でも、そんな事は知っているのは、幼い時に、もっと簡易な絵本とかで見たり、読んだりしていたのかもしれません。

今回、はじめて読んでみましたが、正直いって、まだよくわからない感じです。

図書室でお借りした岩波少年文庫の巻末に、原作を直訳したので少し難しいかもと書いてたとおり、突拍子のない表現や登場人物のセリフや行動に、ついていけず、あまり理解しないまま読み終えた感じで、再読したらもっとよくわかるのかもしれません。

ただ、ピーター・パンという少年のイメージは、かなり変わりましたね。
これまでは、とても純粋で、正義感が強く、やさしい、といった人物像を勝手につくりあげてましたが、純粋というのは当たっているかもしれませんが、一言で言ってしまえば、「自分勝手でわがままな少年」がピッタリです。

常に自分中心で、自分の都合でしか動かない、人の事はあまり考えていないのが、ピーター。

ピーターは、嫌な事はすぐに忘れて、けろっとしてます。

ある意味、それが子どもと言う事なんでしょうね。

子どもは、良い事ばかりでなく、嫌な事もたくさん経験して、その中で、いろいろなルールを自分で作り、または縛られる事が多くなって、大人になっていくのかもしれません。

子どもの時にピーターと空を飛んで、おとぎの国に行ったウェンディーはそのうち大人になって、空を飛べなくなり、「飛ぼう」と誘うピーターにこたえられなくなります。

ずっと子どものままでいたい、大人になんかなりたくない、というピーターと、大人になっていくピーター以外の子どもたち。

大人になると言う事は、自由がなくなる側面もあるけれど、子ども時代にはない、経験できない違う意味での自由を獲得する事でもありますよね。
ピーターは、悪く言えば、いつまでも成長できない存在とも言えますね。

でも、ピーター・パンは、永遠のヒーローとして、とても人気があり、あこがれでもあります。

それは、大人になる事は、ピーターを否定する事では無くて、ピーターのような自由さ、気ままさ、純粋さ、勇気、自分を主張する姿を失わない大人になりたいとの願望なのかもしれないですね。

自分の意見を持ち、しっかり発言しよう。
ダメな物はダメと言えるようになろう。
みんなと仲良くして力を合わせよう。
やりたい事は、やってみよう。

子どもの時に、「大人」から散々言われることがありますね。

でも、これは子どもの時にだけできる、やれる事ではなく、大人になっても、いろいろな経験をして成長した大人として、すべきことなんでしょうね。

「飛ぼうよ」と誘うピーターは、本当は飛べるのに、いろいろと理屈をこねて、飛ぼうとしない、飛ぶ意欲をなくしている大人たち・・・
だけでなく、子どもなのに、「大人」のようになって飛ぼうとしない子どもたちへのエールなのかもしれないですね。 


トムソーヤの冒険

2012-02-21 09:50:35 | こどもの本

最近、いわゆる児童書を読み始めてます。

子どもが生まれて以来、絵本の読み聞かせを、ほぼ毎日してきて、小学1年生くらいまで続いてましたが、こどもがこども自身で本を選んで、好きな時に読むようになってから、読み聞かせも縁遠くなっています。

子育てサロンのスタッフをしているので、時々してはいますが、絵本や子どもの本との「つながり」が、だんだん薄くなってました。

最近、ある本を読んで、あらためて子どもの本に興味が出てきたのをきっかけに、自分が子どもの時に読んだ本なんかも、あらためて読んでみたくなって、読み始めています。

以前、このブログで、絵本の事を書いてみようと思ってたんですが、なかなか続かずに、凍結状態でしたので、これを機会に、子どもの本をテーマに、読んだ感想とかを中心に、少しずつ何か書いていきたいと思います。

記念すべきトップバッターは、「トムソーヤの冒険」です。

あまりにも有名で、誰もが題名くらいはご存知だと思います。

昔、「世界名作劇場」というアニメ番組がありましたが、それでもありましたね。
私は、まさにタイムリーで視てました。主題歌も完ぺきに憶えてます。

かなり昔に読んだ本がまだ残ってたので、あらためて読みました。

この話は、トムという腕白少年を主人公に、主にハックルベリーという親友との冒険や様々な出来事を描いた物語です。

自分なりには、この物語には3つのヤマがあるなあと思います。

1つは、ベッキ―というガールフレンドの失敗をかばった場面。
好きな女の子が困っているのを、いろいろな思いがありつつも、最後は「男らしく」かばって、ベッキ―の「罪」を引き受けます。

2つ目は、ハックルベリーとジョーという友だちと「海賊ごっこ」をして、家に帰らず、嵐とかもあって家の人が心配し、そのうち子どもたちは死んだと思われて、葬式までされようとします。トムは、その情報を察知して、自分たちの葬式の場に登場して、みんなをびっくりさせる作戦を実行します。

3つ目は、ハックルベリーと墓場での殺しの現場を見てしまい、真犯人を知ってしまう大事件。本当の事を話したら、自分たちがひどい目に遭うかもしれない、と恐怖に襲われますが、濡れ衣を着せられた老人を見捨てられず、勇気を出して法廷で証言します。

この3つの場面を読んでみて、「ヒーロー・英雄になりたい!」っていう子どもの純真さやいたずら心に脱帽するし、不正を受け入れない子どもたちの勇気や良心の素晴らしさを感じますね。
子どもという存在のまっすぐさがまぶしく感じる物語です。

同時に、物語の中で、さりげなく、子どもたちの言葉を借りて、当時の社会に対する作者・マークトゥエンの鋭い視線が感じられるのです。

殺人の真犯人であるインディアン・ジョーを見張るため、ハックルベリーは干し草場を選びますが、そこで働く黒人の事を話します。

ハックルベリーはこう話す。

「むこうも、おれをすいているし、おれもすきだな。それはな、おれが白人ぶるようなことをなにひとつしねえからだよ。じいさんとおなじ場所で、おなじものくって、おれはへいきなんだ。そんなとこ、みんなに見られちゃ、まずいことになるのは、百も承知さ。だがよ、こっちも人間なら、あっちも人間さ。なに、かまうことあるかい!そうじゃねえか?」

当時の(今もそうであろうが)アメリカ社会は、黒人に対する人種差別が激しかった事が、ここには表現されてます。
このハックルベリーの言葉は、多分、マークトゥエンの言葉なんだろうと。

ハックルベリーの話に、トムは「そら、そうさ」としか答えていません。
でも、ここに、人種差別を乗り越えて、未来を担う、まさに未来社会の人である、子どもたちの可能性や希望が感じられたんです。

トムソーヤの冒険は、時代を乗り越えていく子どもたちのたくましさを伝えてくれているのかもしれませんね。


 

 


「読み聞かせ」は素敵な時間

2011-02-22 09:54:02 | こどもの本

おはようございます。
この間、本当に温かくなってきましたね。
今朝は、ローソンのある交差点に立ってましたが、温かい日差しがとても気持ちが良かったです。

ぽかぽかしてくると、何となく気持ちも軽くなって、自然に表情も緩むというか、おだやかな感じになります。
それは、毎朝、車で走って行かれる方々もそうかもしれませんね。
府会の公示まで40日を切り、町会の投票日までほぼ2カ月まできた。
年明けから、ようやく、いやいや、あっという間に折り返し。
春近しを感じながら、勢いをつけていきたいですね。

昨日は、午前中に「議会だより」を編集する広報委員会。
本当はとっくに発行していなければいけないのですが、今回は大幅に遅れてます。
12月議会での定数削減をめぐって、議員間に「しこり」が生まれ、いまけっこうぎくしゃくした感じです。
それが理由とは直接的には言われませんが、この間「忙しい」を理由に広報委員長が委員会を開こうとせず、このままでは議会だよりが発行できないと緊急に議長のよびかけで広報委員の集まりを持ったりして、ようやく昨日、委員会が開かれました。その委員会でも、委員長は病院行きがあると早々に早退。
たまたま私が副委員長なので、進めさせていただき、何とか発行の運びとなりましたが、何ともお粗末な感じですね。
2つの常任委員会も委員長が開こうとしない中、委員で開催を申し立ててようやく開催の方向など、一体何やってるのかなという感じです。こんな事をやってたら、ますます議会の信頼を失うだけです。

議会の中では、いろいろと納得できない出来事がありますし、私もそういう場面がいっぱいあります。
12月議会での定数削減の顛末も、もちろんそうだったんですが、だからと言って、議会として議員としてやるべき事はしないといけないのは当然です。自分の思い通りにならないからといって責任を放棄してしまうのは論外です。

 

さて、話はガラッと変わり、本題に入ります。

昨日の午後は、社協主催の「読み聞かせボランティア養成講座」に参加しました。
子育てサロンでもたびたびお世話になっている、絵本講師の松本さんが講師で、楽しく話を聞かせていただきました。昨日は、どちらかというと、地域のふれあいサロンでの活用を想定した内容だったと思いますが、とても参考になりました。

読み聞かせや「お話し会」をしたりする上での、基本的な準備や方法について教えていただいたんですが、絵本の読み聞かせの魅力をあらためて実感しました。

はじめに著作権の話がありました。
作品を模写したり、拡大コピーしたり、勝手に内容を変更したり、紙芝居にしてみたり、無断でコピーしたり、という行為はすべて著作権の侵害になるそうです。著作権というのは、誰にでも発生するもので、例えば、小さな子どもがなぐり書きしたような絵や字にもあるそうで、厳密に言うと、許可なくいろいろと使用してはいけないそうです。え?と、ちょっとギクッとした感じもありましたが、著作権というものの大切さをあらためて知りました。

松本さん曰く、絵本は作者や編集者、出版社などが精魂こめて創作したものだから、大事に扱わないといけないし、その権利はしっかり守らないといけないという事ですが、当たり前ですよね。

その上で、お話し会をする上での実践上のアドバイスをいただいたんですが、一番大事なのは、自分自身が楽しむ事だし、絵本の魅力を自分なりにどれだけ伝えられるかだなあと感じました。

子どもが生まれて以来、最近まで寝る前とか、絵本の読み聞かせを続けてきたんですが、子どもに読み聞かせをする時間は、とても楽しい時間ですし、自分自身も何かとても豊かになるって感じです。
子どもがもう4年生になろうかという時になり、さすがにこの間は読み聞かせの時間もなくなってきました。

松本さんにも、講座が終わった後に、そんな話を聞いていただいていたんですが、子ども自身が世界を持ち、自分で選択できるようになってきたなら、その子どもの要求にこたえてあげるのが、これからの役目では?というアドバイスをいただきました。

なるほど~、って感じでしたが、ちょっぴり、寂しい思いもありましたね。

これからは、松本さんのようにはいかないけれど、いろんな子どもたちに絵本の読み聞かせをできるようになりたいし、お話し会なんかもしてみたいと思ってます。
今は選挙を乗り切るのが最優先ですが、これまでの子育ての中で経験してきた事をふまえて、もう1歩新しい世界に行ってみたいなと。

そんな勇気を、ちょっぴりいただいた松本さんのお話しでした。

 

 


「ぼくは アフリカにすむ キリンといいます」

2008-07-30 22:31:23 | こどもの本

 久しぶりに、大笑いした、面白い絵本に出会いました。

100ページあって、字もけっこう多いから、絵本というには無理があるかも知れませんが・・・。

その本は、作/岩佐めぐみ、絵/高畠純、偕成社というところが出している

「ぼくは アフリカにすむ キリンといいます」です。

アフリカに住む、とっても退屈な思いをしているキリンがいて、ある日、地平線の向こうにいる動物に手紙を書いて、ペリカンがその手紙を配達する・・・

ペリカンが手紙を届けた相手は、ペンギンだったのですが、ペリカンから手紙を受け取り届けるのはアザラシなので、キリンもペリカンもペンギンがどんな動物なのか知らないし、わかりません・・・

キリンは、ペンギンがどんな動物なのか想像し、手紙をやりとりして「ペンギンのまねをする」と言い出します・・・

そして、何度も手紙をやりとりする中で、キリンはペンギンの姿を想像するのですが、これがめちゃくちゃ面白い!

最終的に、「これにちがいない!」と考えた姿に変装して、キリンはペンギンに会いに行くのですが・・・

結末は、なかなかほのぼのとした感じです。

この本を、じゅんが、学校の「サマー学習」に行く前の時間に読み聞かせしていたのですが、キリンが想像したペンギンの姿を見て、二人で大笑いしてました。

ほんと、面白いですよ。