なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その10

2021年03月17日 05時00分00秒 | 義道
結婚前後

9年半ぶりに松林寺に帰ったのを手ぐすね引いて待っていたかのように、結婚しろの大合唱とともに見合い話が次々と舞い込んできた。本人がしたいかどうかではなく、結婚することがここに住む条件のように責め立てられて、言うままに何度か見合いをした。したいわけではないので相手に対しても誰が良いとか悪いとかあまり考えなかった。
それまでにおつきあいしていた人は学生時代からいた。ただ、永平寺に行き、山形の寺に帰る気持ちがだんだん固まってくると、田舎の寺の奥さんになる人かどうかという見方をしてしまい、難しいだろうと思ってしまった。
昭和59年(1984)の12月2日、叔父が持ってきた何度目かの見合いは松林寺でだった。仲人と叔父夫婦、それに相手とその母親と出稼ぎに行っている父親の代わりに従兄弟が同席した。顔を合わせた相手に別段の感情は湧かなかった。帰ってから母親は「どうだ」と言う。どうもこうも初めて会ったばかりでどうでもないと言うと、「男の方から仲人に返事をするのが礼儀だ。悪くなければいいということだ」と言う。すぐに仲人に電話で「本人が大変気にいっているのでどうか進めてください」と言っている。「見合いというのはそういうものだ」と押し切られてしまった。
「向こうの父親も帰ってくるというので、次は8日に相手宅で会うことにましょう」と、仲人により段取りが決められた。それで6日後の2回目の見合いというか顔合わせとなった。誰もが「本人同士の気持ちが大事」と言葉では言いながら、ここで決めようという空気が充満していて、「どうだ」と迫られる。この時点で、自分の気持ちより親や親戚や仲人の気持ちを汲もうというように心は動いてしまう。「分からない」というのは「悪くないということだ」と、親同士が「それじゃあ」と言って「旨い酒ということで」と結婚することが決まってしまった。
その場でカレンダーをめくり式場に問い合わせ、結婚式の日取りと会場、結納の日まで決められた。本人同士の意思などさほど問題ではなく、親同士と親戚、仲人でどんどん進められていくのだった。そして、60年(1985)4月13日に結婚した相手が十和子だ。
彼女は当時銀行勤めで、年末商戦で忙しくなかなか会う時間もなかった。結婚が決まってから改めて「これでいいのか」と迷いが膨らんだのだろう、忙しいということを理由に正月が明けてからも会うことを避けていた。
それでも結婚当日はやって来て、松林寺仏前で挙式した。その後も半年ほどはギクシャクしたブルーな時代があったが、以来36年夫婦として何とかやってこれた。1男2女もそれぞれ結婚し幸せそうに暮らしている。結果としてこれでよかったのだと思う。いや、そう思う以外ない。
自分の意思で結婚したりしなかったりするが、自分の意思だから幸せになれるとは限らない。本人の意思など無視されるような形で、周囲に促されそれに任せてしまうことで幸せになる場合もある。どんな形で一緒になったとしても、結婚というのは夫婦になるというゴールではなく、夫婦になっていくスタートなのだと振り返って思う。幸不幸はスタートで決定されるのではなく、幸せを感じるような生き方をするということなのだろう。

結婚も慌ただしかったが結婚後もなかなか忙しかった。2か月後の6月には松林寺の授戒会だった。その準備には事務仕事がたくさんあり、また毎日のように人が集まり日常が忙殺されていた。それがかえって結婚後のギクシャクを薄めてくれたかもしれない。授戒会とはキリスト教の洗礼式のようなもので、3日間にわたり僧侶60名戒弟360名が本堂を埋め尽くして、正式な仏教徒になる修行を行った。感動で涙を流す人も大勢いた。
また結婚と前後して、新庄英照院の留守番役を頼まれていた。授戒会が終わるとすぐに英照院勤務となった。さらには河北町宿用院の住職という依頼の話も来ていた。結果として、松林寺の副住職でありながら英照院の留守居役である監寺を務めさらに宿用院住職となるという、3カ寺の掛け持ちをするようなことになってしまった。
この間のことを時系列で整理すると、59年(1984)12月2日お見合い、8日2回目の顔合わせで旨い酒、20日結納、60年(1985)4月13日結婚、6月松林寺授戒会、終わって英照院の留守番、61年(1986)1月長男誕生、4月宿用院住職兼英照院監寺という目まぐるしい日程だった。



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