詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(21)

2020-04-04 21:32:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

詩篇

稲妻が走るたびに
闇のなかに盲目の顔が浮かぶ

 この二行は、どこかの詩に組み込まれているかもしれない。はっきりとは思い出せないが、読んだ記憶がある。(もちろん、この詩で読んだという記憶かもしれないが。)
 なぜ「盲目の顔」なのか。
 「盲目」と「闇」が重なり、自分が「盲目」になって稲妻に浮かび上がっているという自画像を連想してしまう。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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野沢啓「暗喩の暴力性」

2020-04-04 21:02:48 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「暗喩の暴力性」(「未来」599、2020年春発行)

 野沢啓「暗喩の暴力性--言語暗喩論」を読みながら、私は脱線し続ける。野沢の書いていることは理解できるといえば私なりに理解できているつもりだ。もちろん、野沢は理解していない、誤読しているというかもしれない。しかし、こういうことは、いつでも、だれに対しても起きるだろうから、私は気にせずに読んで考えたことを書くだけである。
 野沢は「詩のことばの暴力性」と書いている。私も詩のことばは暴力的だと思う。そしてそれが詩の魅力だと思う。
 しかし、

ことばが何を語り出そうとするのか、ことばの自己運動がどのように、どこまで展開していくのか、詩人はことばに憑依した運動が収束するまで自身は自動筆記装置と化すほかはない。

ことばは手の切れるような尖端が振り回されているかぎり、どこに接触し着地するかわからない。このことばの暴力性、ことばのエッジを切りつける行為こそが詩の営為であるとしたら、詩のことばは既成の世界を攻撃し、破壊し、解体しようとさえするだろう。

 という文章を読むと、それは「散文」でも同じではないだろうか、と思ってしまう。
 たとえば、私はいまこうやって「詩」ではなく「散文(感想)」を書いている。書こうと思ったとき、何かがたぶん私に「憑依」している。そして、それは私のことばにも「憑依」していると思うし、私は、その私自身理解できない「何か」に身をまかせているにすぎない。ことばが勝手に動いていくのに身をまかせている。「結論」が何かわかっていて書いているわけではない。ただ思いつくまま「自動筆記」しているにすぎない。
 このとき、私は私のことばが何と接触しているのかわからない。野沢のことば(野沢の書いていること)に接触しているつもりだが、もしかすると「接触」ではなく完全なる「乖離」かもしれない。私のことばは、「接触」も「乖離」も判断せずに、何かを書きたいという欲望だけで動いている。野沢のつくりあげていることばの「世界」を攻撃し、破壊し、解体したいという「暴力」で動いている。どこへ着地するか考えたこともない。ことばが「暴力」を発揮し、気持ちが落ち着けば、そこでぱたりと動かなくなる。それだけだ。
 「暴力」がうまく動けば「批評」になるかもしれない。何の刺戟も引き起こさないとしたら「誤読」の空振り、ということになるだろう。そういうことは、しかし、他人が(野沢が、あるいは、野沢の文章と私の文章を読んだ人が)判断することであって、私にとってはあまり関係がない。私は、ことばをつかって、私がことばにしていないものを、ことばにしたいと感じているものを、ただ書いてみたいだけなのである。それは「無駄」かもしれないが、そういう「無駄」を人間に強いる「暴力」というものもことばは持っている。
 そして、その「暴力」は、あるときは「詩」と呼ばれ、あるときは「散文」と呼ばれるだけなのだと思う。
 たとえば「散文」の出発点(?)ともいえるソクラテス(プラトン)の対話。それは、当時の社会からは「暴力的(破壊的)」をものを持っていると判断されたから、ソクラテスは死刑になった。「詩」ではなくても、ことばは、いつでも「暴力的」なのものだと私には思える。
 だから詩のことばは確かに「暴力」だけれど、それが「詩の定義」になるかどうかというと、疑問に感じてしまうのだ。「散文」も暴力的だ。キリストのことばも、たぶん「暴力的」だから社会から弾圧を受けたのだと思う。そして、この「暴力」というのは、いつでも社会のあり方と関係してくるから、そのことばが存在する「世界」/そのことばが向き合っている「世界」と関係づけならが「暴力」の「暴力性」を定義しないと、どうも落ち着かなくなるように感じられる。
 私の書いていることばは、たとえば野沢の書いている「論理」を無視しているという意味では充分に「暴力的」だろうと思う。野沢の書いていることを理解し、それにそって考えようとせず、自分勝手に思うままに書いている。こういう「暴力」は、ふつうは受け入れられない。「誤読している」と切り捨てられる。それはつまり「誤読している」という「暴力」で私を否定するということである、と私は言い返すことのできるものであるけれど。

 ちょっとややこしくなったが。
 「暴力」というのは、定義がむずかしいし、「自動筆記」にしても定義がむずかしい。私は何を書くときでも「結論」を想定していない。いつでも「自動筆記」でしか書かないから、とくにそう感じるのかもしれない。

 さて。
 今回の野沢の文章では、一か所だけ「詩」が引用されている。宮沢賢治の『春の修羅』の「序」。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です

 これについて、野沢は、こう書いている。

 賢治はここでみずからを未知の〈現象〉としていきなり出現させているのである。この〈現象〉が当時の詩においては斬新な科学的ヴォキャブラリーを擁し〈ひとつの青い照明〉として未知の世界へ身を入れていくかたちで詩を出動させたのが『春と修羅』の劇的な新しさなのである。

 「暴力」は「斬新/新しさ」と言い直されている。科学的なことばをつかうことが、それまでの自然描写や日常の言語を主体とした文学(社会)を「攻撃し、破壊し、解体」する力をもっていたということだろう。現代では、もうその「暴力性」は薄れているかもしれない。また、「現象」ということばだけではなく、この「現象」ということばが必然的に引き寄せてしまう(自動筆記させてしまう)「仮定する」「有機交流」という科学的(物理的)な文体をもったことば、さらに「電燈/照明」という連続性にも、それまでとは違った「文体」が「暴力」として働いていると思う。
 そう理解した上で、私がいま思うのは、

ひとつの青い照明です

 この一行の「青い」ということばについてである。「青い」は「現象」のように新しいことばではない。古くからあることばであり、それはたとえば「透明(透き通った)」とか「静かな」というようなイメージを抱え込んでいると思う。そして、そのことだけでいえば、そこには「暴力性」はないように感じられる。
 しかし、ほんとうは、ここにも「暴力性」はあるのではないか。
 「青い」はなくても、この詩は成立する。「青い」がない方が、より「科学的」な感じになるかもしれない。でも、賢治は「青い」と書いてしまうのだ。(「青い」ということば、たぶん賢治の多くの作品に登場する基調色だと思うが。)その一種の「無意識」の「好み」。こちらの方が、ほんとうははるかに「暴力的」かもしれない。
 「現象」「仮定」「有機」「交流」「電燈」というような、意識的な「科学的文脈」から外れているからである。
 言い直すと、「暴力」には当時の社会の意識を攻撃し、破壊し、解体するものがあると同時に、その時の「文体」そのものを攻撃し、破壊し、解体するものがあって、この方がはるかに強いのだ。意識できない根深いものがあるのだ。それは「社会」に対する賢治の「自然」のようなものだ。
 こういう「自然」は、「詩」だけではなく「散文」においてもあらわれてくると思う。(具体例をすぐには思い出せないが。)この「自然」もまた「自動筆記」である。そういう部分にも触れると、野沢の書いていることは、より刺戟的にあると思う。
 いま書かれている文章でも刺戟的ではあるのだけれど、ハイデガーとかヴィトゲンシュタインとか、外国の哲学が出てきて、そういうものを体系的に読んだことのない私は、どうも一歩引いてしまう。何か感想を書いても、「ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン」を読んだ上で言っているかという叱責が耳元で聞こえる感じがして、苦手だなあと思うのだ。
 で、そういうことを書いたついでに、また脱線したことを書くのだが。

詩は言葉による存在の建設である。

 たとえば、このハイデガーのことばの「詩」を「法(律)」と読み替えることもできるのではないか、と私は考えてしまう。そのとき「存在」も「社会」と読み替えたいのだが。つまり、こんなふうに。

法は言葉による社会の建設である。

さらに

憲法は言葉による国家の建設である。

 と読み替えていくと、これは安倍批判になると思う。「言葉は存在の家である」も「憲法は国民の家である」と読み替えることができるだろうと思う。
 「文体」が抱え込むものは、とても大きいのだ。それを「詩」にだけあてはめるのは、私にはもったいない感じがするのである。「詩」も「散文」も、私は区別しない。同じ力をもっていると思うのだ。
 ヴィトゲンシュタインの「私の方法は一貫して言語における誤謬を指摘することにある」というのも、「私の方法は一貫して安倍の憲法(解釈)における誤謬を指摘することにある」という具合に利用することができる。そういう「文体」の力というものがある思う。また、このヴィトゲンシュタインのことばは、なんとなく、私には孔子の言っていることと通じるなあ、とも感じられる。
 どんどん脱線してしまったが。
 「詩」に特権を与えて、ことばを定義するという感じ、あるいはことばに特権を与えることで詩を定義するという感じに、何か疑問を感じる。
 私は、その場その場で、ことばと向き合うだけで、「詩」「散文」「政治」に違いはないと思う。









*

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死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。

2020-04-04 09:33:24 | 自民党憲法改正草案を読む
素人の見方
       自民党憲法改正草案を読む/番外333(情報の読み方)

 
 2020年04月02日の読売新聞(西部版・14版)の2面トップ。新型コロナニュース。

感染100万人/1週間で倍/全世界 死者5万人超す

 という見出しといっしょに全世界の状況が一覧表になっている。すでにフェイスブックでも書いたのだが、非常に気になることがある。
 中国・武漢で爆発的に拡大し、それが世界に広がったという状況だが、あとになって集団発生した国ほど感染者、死者が多い。
 韓国は武漢につづいて注目を浴びたが、いまは落ち着いている。感染者は1万人を超えているが死者は174人。
 一方、イタリア、スペイン(その他のヨーロッパ)、アメリカと見ていくと、話題になった順序としてはイタリア、スペイン、アメリカなのだが、大問題になったイタリアの状況は、4日付の新聞では感染者11万5242人、死者1万3951人、スペインは11万7710人、死者1万935人と、感染者はイタリアを超えてしまった。死者も追い越すかもしれない。アメリカは感染者24万5646人、死者6068人。感染者はイタリア、スペインをはるかに超えている。死者もこれから増えていくだろう。
 中国の数字(感染者8万1623人、死者3322人)がどれだけ正確であるかわからないが、感染者数ではドイツでさえ上回っているし、死者でもフランス、イギリスがすでに中国を上回っている。
 これには二つの「理由」(原因)が考えられる。素人の考えだが。

①あとになるほど検査が厳しくなり感染者、死者の把握が進んだ
②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態だった

 ①の場合なら、それは問題であるよりも、一つの「効果」と考えることができるが、②だと大問題だ。
 特に日本の場合を考えると、②の危険が非常に大きい。
 私たちはクルーズ船の大失敗を見ている。不十分な管理態勢の上に、検査も充分にしなかった。そのため検査を受けずに下船した人までいる。
 そしていま、日本で感染者、死者が加速度的に増えている。「②検査が遅れるほど、市中感染が広まり、感染者の増大につながった。検査をはじめたときは検査が追いつかない状態」になっている。感染経路がわからない人だらけなのだ。検査開始が遅れれば遅れるほど、問題は深刻化していると、素人の私は見る。
 ベルギー、オランダ、ポルトガル、スウェーデン、カナダ、ブラジルでも感染者、死者の数が日本よりも多い。アメリカでは西部の方が早く検査をはじめた。遅れた東部のニューヨークは問題が深刻化した。日本でも初動がうまくいった和歌山、北海道では問題が沈静化しつつある。ところが、初動が遅れた東京は深刻化している。どれも、検査の遅れと関連している。
 日本ではまだ「日本」と「クルーズ船」をわけているが、そういう「小手先」の数字を少なくみせる方法では、絶対に「ごまかし」のきかない状況になっている。
 日本は、欧米の諸国に比べると、「初期」と言える段階から新型コロナに向き合っている。しかし、そこで韓国のような徹底した検査体制をとらずに、ずるずると引き延ばしているのだが、その引き延ばしを感染者が追い越し始めている。検査されていない感染者が市中に信じられないほどいるに違いないのだ。そしてその「市中感染者」は検査開始が遅れるほど増えていくのだ。
 そういうことが、一覧表からわかる。

そうした状況の中、

「検査数少なく正確な評価困難」 在日米大使館が「予測困難」と米市民に帰国促す

というニュースが流れている。毎日新聞のウェブサイトである
https://mainichi.jp/articles/20200404/k00/00m/030/005000c

 アメリカも日本の検査体制に疑問をもち、アメリカ人の命をまもるのには帰国させるしかないと判断したということだろう。
 日本はこれから感染者、死者が急増する。それはイタリア、スペイン、アメリカを超えてしまうだろう。どれだけ増えるか、予測困難なのだ。アメリカはアメリカ国内の死者を最大24万人と予測していたようだが、日本はそれを上回る恐れがあると予告しているに等しい。

 なぜ、こんなことが起きたか。
 クルーズ船の初動対応がまずかったからだ。最初から「数字をおさえる」ということだけを目的にしていたからだ。そのため、世界に誤解を与えた。新型コロナはテキトウな対応でもそれほど深刻にならない。中国・武漢で大量に患者が出たのは、中国がまだまだ「文明国」ではないからだ。韓国も同じだ、という誤解を与えた。そして、その「誤解」はほとんど安倍の「偏見(人種差別)」と重なる。
 新型コロナが終息し、「検証」がはじまれば、絶対に安倍の対応が問題視されるはずである。何度も書いてきたが、日本は厳しく批判されるだろう。「事実」をごまかし、世界に新型コロナの危険性をつたえなかったのは、日本なのだ。(中国は数字に問題があるかもしれないが、少なくとも「危険性」と「都市封鎖」などの方法を正確につたえた。感染拡大を防ぐには「都市封鎖」しかないことを明確に実証した。)

 で、問題のクルーズ船だが。
 読売新聞(2面)に、小さな記事(1段見出し)があった。

クルーズ船対応/米代理大使謝意/「最高のケア受けた」
 
 なんともはや。ちょっと絶望的になる。クルーズ船の乗客が全員下船し、帰国したときならまだわかるが、なぜ、いま、こんな記事が載るのか。
 私のようにクルーズ船の初動に問題があった、それがいまの世界の混乱を招いていると指摘する声が、きっと出始めているのだ。それを「封じる」ために、こんな記事が書かれている。安倍の対応はアメリカから感謝されている。
 でも、感謝なんか、全然していない。それは先に引用した毎日新聞の記事を見ればはっきりわかる。アメリカは日本を信頼していない。世界各国がアメリカにならうだろう。中国(武漢)から、世界が引き上げたように、日本から世界が引き上げていく。
 安倍を信じたら、みんな死んでしまうのだ。死者の数は、世界でいちばん多くなるだろう。


















#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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なぜいま「医療崩壊」を言うのか(その2)。

2020-04-03 10:57:09 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜいま「医療崩壊」を言うのか(その2)。
       自民党憲法改正草案を読む/番外333(情報の読み方)

一般社団法人 日本集中治療医学会が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する理事長声明」を出した。
https://www.jsicm.org/news/statement200401.html?fbclid=IwAR2oslF1vVMcS-vkk4WR8zmDj09wcx6oV1HN1Imt_-dRImW5V2KFYai4PDY

私がいちばん疑問に思うのは、なぜいまごろになってこういう文章が出るか、ということ。

「重要なことは、本邦のICUは2対1看護でありますが、重症化した新型コロナウイルス感染症患者の治療をICUで行うには、感染防御の観点からも1名の患者に対して2名の看護師が必要であるということです。これは、8床のICUでは、新型コロナウイルス感染症の患者2名を収容した時点でマンパワー的に手一杯となり、通常の手術後の患者や救急患者の受け入れさえもできなくなる事を意味致します。」
↑↑↑↑
こういうことは医療現場では「常識」ではないのか。
だからこそ、中国・武漢の様子がつたえられたと、「医療崩壊」が起きる、と叫ばれたのだと思う。
そして「医療崩壊」させないために、検査を少なくする、検査の精度は低いのだからする必要はない、症状が出てから「感染している」という疑いが強い人だけ検査すればいいという体制がとられてきた。
そして、それが「感染経路が不明」な感染者を増やすという現状につながっている。
その間、「日本集中治療医学会」は政府に対してどんな働きかけをしたのか。
ICUを増やせ、看護師養成のための準備をしろ、というようなことを働きかけたのか。
「医療現場」のひとは「医療崩壊」というが、国民が直面しているは、自分自身の「健康崩壊」。
「医療崩壊」がどうして起きるかと考える前に、国民の「健康崩壊」がどうして起きるのか、ということを考えるべきではないのか。
国民が「健康崩壊」を起こさない限り、「医療崩壊」は起きない。
国民が「健康崩壊」をおこしたとき(あるいは、それが予想されるとき)、どうすれば「医療崩壊」がおこさずにすむか。
医療体制の充実しかないだろう。
中国で大問題になってからすでに2か月以上たつ。
いままで「医療現場」は何をしていたのか、なぜ、政府にもっと働きかけなかったのかと不思議でしようがない。
一気に患者が増えるのは困るが、毎日、治療できるだけの患者が継続的に来る限りは「もうかる」。そういう「もうかる」システムを維持したいというだけなのではないか。

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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(20)

2020-04-03 10:49:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

自由人

ぼくは呪う
ぼくは拒む

 と書いて、そのあと「何を」呪うのか、「何を」拒むのかを書き続ける。
 そして、それはだんだん長くなる。
 それがおもしろくない。
 書き出しの短いリズムのまま、ことばが展開するなら、「自由」が強烈に輝く。ことばが長くなると「叫び」ではなく言い訳になる。
 「呪う」「拒む」という動詞が「言い訳」といっしょに動くのは、感情を論理が上回るからである。これは、おかしい。
 論理を突き破って動く何かが「呪う」ということである。「拒む」ということである。「論理的」である限りは「自由」とは言えないのだ。「論理の自由」さえ、そこにはないのだ。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(19)

2020-04-02 09:58:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

それだけのものだが

ぼくは籠の中に見知らぬ花をいれる
息を切らしている小さな花を
あざむかれた昨日の花を

 「見知らぬ花」。しかし、それが「息を切らしている」ことがわかる。花の肉体に、嵯峨の肉体が同調する。
 道にうずくまる人がいる。そうすると「腹が痛いのだろう」と感じる。腹が痛いとき、腹を抱えてうずくまった経験が肉体の中に残っているからである。おぼえているからである。肉体は体験したことを忘れない。
 「息を切らしている」は「あざむかれた」ということばに変わる。「息を切らす」には原因がある。花の場合は「走る」ということはない。肉体を激しく動かすわけではない。しかし、肉体が動かないときでも、意識、感情は動く。動き回り、動き疲れて、「息を切らす」。
 花は「女」であるかもしれないし、未熟な「少年」(嵯峨の記憶)であるかもしれない。




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なぜいま「医療崩壊」を言うのか。

2020-04-02 09:08:12 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜいま「医療崩壊」を言うのか。
       自民党憲法改正草案を読む/番外332(情報の読み方)

 
 2020年04月02日の読売新聞(西部版・14版)の一面トップ。新型コロナ関連ニュース。

大都市の医療崩壊 懸念/専門家会議 5都府県、切迫

 これはその通りなのだろうが、なぜ、いま、それを言うのか。
 中国・武漢が都市封鎖したとき、さらにはクルーズ船が入港したとき、すでに「医療崩壊」が起きることは懸念されていた。多くの人が指摘している。それから2か月たっている。その間、専門家会議と安倍は何をしていたのか。
①中国のように臨時に病院をつくることを検討したか。そのための土地を確保したか。
②受診システムが混乱しないように、一般の患者と、新型コロナ受診(検診)を分離するシステムをつくったか。
 何もしていないのではないか。
 さらに言えば、何度も書くが、「医療崩壊」ではなく、国民の「健康崩壊」を心配したことがあるのか。
 医療というのは、「予防」を別にすれば、いつでも「後出しじゃんけん」である。国民が「健康崩壊=病気」になって、それから病院へ行く。国民が「病気=健康崩壊」を起こさない限り、国民は病院へ行かない。患者が殺到することはない。国民がいっさい病気をしなかったら、病院経営が成り立たないという「病院崩壊」が起きるのだ。病院が倒産するのだ。国民の病気を治療することで金を稼いでいる病院が「患者が殺到すると医療崩壊を起こす」と心配するのは、とても奇妙だ。殺到する患者を受け入れる準備をしておけば、それは「収入のチャンス」だろう。「医療崩壊」ということばは「テキトウに患者を治療して、自分の暮らしさえ安定していればいい(暮らしに必要な金さえもうかればそれでいい)」という発想ではないか。どうして、「いまこそ医療の底力をみせるときだ。一致団結してがんばろう。がんばるためのシステムをつくろう。そういうシステムを国に要求しよう」という発想を医療関係者はしないのか。
 「医療崩壊」ということばを読むたびに、私は、腹が立ってしようがない。国民の「健康破壊=死」は医療にとってはどうでもいいのか。国民は死んでいくのに、少しでも生きていたいという望みをかけ、治療を受けるのだ。ことばは悪いが、どうせいつかは死ぬのに治療を受けるのだ。何のために? 生きたいからだ。苦しい思いを少しでもしたくないからだ。その気持ちを「医療崩壊」ということばをつかう人たちは考えたことがあるのか。患者が殺到しては、自分(医師、看護師)が病気になり、死んでしまうと不安になるなら、そうならないシステムを作ればいいではないか。なぜ、それをつくろうとせず、「医療崩壊が起きる」と心配するのか。やっていることが、まったく逆だろう。
 しかし、それにしても。
 いま心配されている「医療崩壊」が起きるとしたら、それは何が原因か。医療システムが脆弱だという理由だけか。そうではない。繰り返しになるが、医療はいつでも「後出しじゃんけん」である。患者が発生して、はじめて医療が動き始める。
 新型コロナの場合、初動はどうだったか。クルーズ船を例に言えば、「全員検査」をしていない。船内での「隔離」を徹底していない。このため感染が広がり、こらに「陰性」と確認されていない人が下船し、市中に広がった。そこにいちばんの問題がある。いったん市中に散らばってしまえば、感染経路がわからない人が増える。「封じ込め(隔離)」が困難になる。こういうことは、医療関係者ならすぐに想像できるだろうし、私のような素人でも想像してしまう。
 一面には、感染者が「国内 新たに267人確認」されたというニュースが載っている。そこにこんな記事がある。

①都内の66人のうち、感染経路が特定できていない人は6割近い38人に上った。
②66人のうち40歳代までの感染者が45人と約7割を占めた。

 初動から、きちんと「全員検査」を実施していれば「感染経路が特定できない」というひとの割合は、もっと少ないだろう。「感染経路」が特定でき、経路の周辺をきちんと検査していれば「40歳代以下が7割」ということも起きなかっただろう。クルーズ船の乗客に「40歳代以下」は多くなかったはずである。少なくとも「7割」を40歳代以下が占めるというとはなかっただろう。行動範囲が広い40歳代以下が感染者になれば、当然、感染は拡大する。拡大スピードも速くなる。
 これからどうなるのかわからないが、安倍は少なくとも「初動の防疫体制が不備だった」ということを認め、国民に謝罪した上で、今後の政策を進めるべきだろう。「ぼくちゃん、知らない。ぼくちゃん、何もしていない」という姿勢ではだめなのだ。何が間違っていたか、それを語らないことには、国民の協力などあるはずがない。五輪で「ぼくちゃん、いちばん偉い。ぼくちゃんが首相なんだ」といいたい安倍の欲望のために、日本も世界も大混乱に陥っているのだ。その自覚が安倍には完全に欠けている。
 いま必要なのは、何が間違っていたかを明確にし、それを修正するためにどうするか、それを語ることだ。「医療崩壊が心配」などと言っているときではない。イタリアやスペインは「医療崩壊が心配」などとは言わず、医療崩壊を承知で必死になって医療をつづけている。そのことを見習うべきだ。
 安倍は医療現場に対して、「新型コロナが終息したらきちんと保障するから、なんとか医療は現場を放棄せずにがんばってほしい、そのために政府はこういうことをする」というべきときなのだ。










#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


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布マスク配布

2020-04-01 23:19:27 | 自民党憲法改正草案を読む
布マスク配布
       自民党憲法改正草案を読む/番外330(情報の読み方)


NHKのニュースサイトに「1住所当たり2枚の布マスクを配布の方針 安倍首相」という信じられないニュースがあった。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200401/k10012362911000.html

この2枚のマスクは、しかも
「再来週以降、感染者数の多い都道府県から順次、配布するとしています」という。
これは裏返しに言えば、
① 新型コロナ感染は2週間以上つづく
② 2週間は国民にはマスクは行き渡らない
を意味する。
いままで安倍は何をしてきたのか。
「この2週間が瀬戸際」とか「正念場」とか言い続けて来ただけで何も有効なことをしていない。
「やらせ記者会見」で「3月にはマスク6億枚供給」と言いながら、それすら実行できず、布マスク「1住所2枚」でごまかそうとしている。小学校が中学校の学級会で「布マスクを手作りして、必要な施設におくろう。ひとり一枚つくれば近くの施設の老人分は確保できる」と決めて実行する方がはるかに「親身」というものだろう。
小中学生に劣ると言えば、小中学生がばかにするなと怒るだろう。

こんなばかなことを「政府方針」として発表するのではなく、もし新型コロナ感染者がふえるということが予想されているのなら、
① 隔離病棟をどうするか。病室をどう確保するか。
② 受診にやってくる人をどうやって区分けし、安全な検診体制を確立する
ということを、「期限」を明示して明らかにすべきだろう。

で、こういう「子供だましの対応」を安倍は、どう「記録」として残すのか。
新型コロナ対策をどう進めたかという「文書」をつくるとき、「発生が問題化してから2か月以上たって、布マスクを国民に配布することを決め、その2週間後に配布した」と明記するのか。
そういうことを、世界が新型コロナ対策を「検証」するとき、報告するのか。

いままで安倍がとってきた「政策」は「検証」の場で、「検証材料」として役立つのか。
クルーズ船の問題が起きたとき、安倍はどうした。
① どういう指示を、どこに出し、それはどう実行されたか。
② そのとき、その指示・実行は、どのような効果を上げたか。
ということをきちんと「記録」しているか。それともクルーズ船の乗客・乗員が全員下船した段階でクルーズ船の対応は終わったから、そういう「記録」はすべて廃棄して、存在しないのか。
新型コロナ問題が終息したとき、絶対に、世界的な「検証」がはじまる。
そこで安倍は、クルーズ船問題を、どう報告するのか。
さらにその後の対応と効果をどう報告するのか。
安倍は、クルーズ船の初動でミスをした。そしてそのミスの中には全員の検査をしなかったために、感染者が「少ない」という誤った情報が含まれ、その「少なさ」が世界に誤解を与えたことが問題になるだろう。
初動防疫に失敗しても、感染はそんなに拡大しない、という誤解の「余地」を世界に与えてしまったのだ。
もし「正確な感染者(死者)」を把握していたら、世界は危険性に気づき、防疫体制を強化したかもしれない。
絶対にそういう批判が出てくるはずである。
中国が懸命に「封じ込め対策」をやっているときに、日本は「半分野放し対策」をやり、正確な「感染者数」を把握することを怠り、世界に誤解を与えた。
この罪は非常に重い。

そして、いま、安倍はそういう「重大ミス」をごまかすために「1住所当たり2枚の布マスクを配布」ということをしようとしている。
マスクがほんとうに有効なら、いつ、どこの店に何枚入荷するのか、そういう「供給」の目途を正確に知らせる方が大切だろう。それが国民にマスクを行き渡らせる方法だろう。
「洗ってつかえるから、何枚もいらない」というのなら、安倍や、国会議員、公務員が率先して「布マスク」をつかえばいいだろう。
国民にとどくのは2週間先。順次、というのだから、全員に行き渡るのはいつか、さっぱりわからない。これも、まったくおかしな話である。いつ届くかわからない布マスクを待ちながら、国民は新型コロナに感染し、死んで行くのだ。





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伊藤悠子「海面(うみづら)」

2020-04-01 12:37:59 | 詩(雑誌・同人誌)
伊藤悠子「海面(うみづら)」(「左庭」44、2020年03月12日発行)

 伊藤悠子「海面(うみづら)」の全行。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

左舷から船尾をまわる
右舷にうつる
人生が変わっている戻っている
だれのものか苦労ばかりの来し方が強風になって吹きつける
ここは足早に行くか
うつむくか
また光のある方へ移動するだけだ
船首にたどりつくと遠くに
薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ
行く末をその背にたくせば
ふりにしこの身を海は洗うか

 伊藤(と仮定して読み始める)は船に乗っている。船は海原のただなか。海しかみえない。いや、船そのものが見える。その船上を左舷から船尾へ、船尾から右舷へ、そして船首へとぐるりと巡る。
 そのときに見たもの、そのときに感じたことを書いている。思い出も、当然そこに顔をのぞかせる。「海」は「人生の舞台」の比喩かもしれない。
 苦労を「だれのものか」と書いているが、これは自分の苦労だけれど、すでに「だれのものか」と言えるくらい客観的になっている、ということだろう。どんな苦労も、思い出になってしまえば、それを語ることができる。実際に苦労しているときは語れない。「ここは足早に行くか/うつむくか/また光のある方へ移動するだけだ」と思い、ひたすら動くだけだ。
 そのあとが、とても劇的で、印象的だ。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた

 少年の姿を伊藤は、どこに見たのか。前の行の「遠く」とは、どこか。船首の先端か。岸か。岸と想定するのが自然だが、どうして「薔薇の垣根を越えてやってきた」とわかるのか。薔薇の垣根を越えるところを見たのか。見てはいない。でも、それが「わかる」。「過去」がわかる。
 なぜ劇的(演劇的)か。
 劇とは、突然あらわれる「過去」なのだ。人にはだれでも「過去」があるが、その「過去」を気にして他人と向き合うことはない。「他人の過去」など知らないまま、「他人」と向き合う。しかし、向き合った瞬間に「過去」を感じるときがある。「過去」なのに「いま」として、そこにあらわれているように見えるときがある。
 演劇では、登場人物はいつでも突然舞台に登場する。その人物の「過去」をだれも知らない。しかし、知らないはずなのに「過去」を感じさせる役者がいる。これを存在感がある役者という。そして、そのとき「知らないはずの過去」はいつかどこかで「自分が経験した過去」につながっている。何か自分の知っている「過去」を役者の肉体を通じて感じてしまう。そういうことがある。
 いま起きているのは、それだ。
 少年が「薔薇の垣根を越えてやってきた」と「わかる」のは、伊藤に「薔薇の垣根を越えて」海を見に行った(海を見るために岸へやってきた)記憶があるからだ。少年と書かれているが、それは少年ではなく、伊藤自身なのだ。
 「苦労」が「だれのものか」わからなくなったのとは正反対に、「遠くに見える少年」は「伊藤そのもの」だと「わかる」。記憶(体験)が不思議な形で交錯する。

一人で海を見ている
とても一人だ

 「一人で海を見ている」は船上からみた少年の姿であり、同時に「一人で海を見ていた」伊藤の記憶である。ふたりは重なる。融合する。
 だから「とても一人だ」と言うことができる。伊藤は少年になって「一人きりだ」と感じる。「とても」という「主観」をさらに付け加える。「主観(いつの感情)」が噴出してきてしまうのだ。
 船上にいて、伊藤は「一人で海を見ている」。そして「とても一人だ」と感じている。それが「遠い」日の伊藤に重なる。少年のように、あの日、伊藤は「一人で海を見ている」、あの日「とても一人だ」と感じたことを思い出す。「いま」として。
 このときの、私が挿入した「少年のように」はいろいろな意味がある。その一つは、あの日、伊藤は自分を「少女」として海をみつめたのではない。だれか、自分ではない人間になって海をみつめたのだ。「だれかのもの」の「だれか」が、そこには含まれている。客観的になろうとする「意志」が伊藤を「少年」にさせるのだ。
 伊藤が「遠くに」見るのは「少年」でなければならない。「少女」であってはならない。「少年」だからこそ、伊藤は「少年」と一体になることができる。

 ここには「うそ」がある。その「うそ」とは「虚構」のことである。「虚構」をとおして、ことばになりにくいものがことばになる。ことばとはもともと「虚構(うそ)である。書き出しを読み直すだけでいい。

海は一面の深い皺を持つ大きな顔

 海は「顔」ではない。「顔」は比喩。比喩とはうそであり、虚構だ。この「わざと」動き始めることばが、虚構(うそ)を突き破って「事実/真実」をつかむとき、それを詩と呼ぶ。それが、先の三行に結晶している。

薔薇の垣根を越えてやってきた少年の姿が見えた
一人で海を見ている
とても一人だ








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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(18 )

2020-04-01 11:14:53 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

ぼくを愛する女は

どんな小さな器の中でもぼくをとらえ
どんな大洋の中でも目ざとくぼくを発見する

 「未収録詩篇」にはことばの動きがつかみにくいものが多い。嵯峨自身の肉体のなかでことばが整理されていないのかもしれない。未整理の部分が多いのは、無意識が無意識のまま動いているということだろう。
 「小さな器」と「大洋(大きな海、器には入りきれないもの)」が対比されたあと、「とらえる」が「発見する」と言い直される。その運動のなかに「目ざとく」ということばが入ってきている。
 この「目ざとく」がこの詩のポイントだ。私の印象では「目ざとく(目ざとい)」には何か批判的なものが感じられる。愛してくれる女を、「ぼく」はそれほど愛していないのかもしれない。





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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(17)

2020-03-31 09:59:35 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
祭典

あなたがあなたであるよりも
時が時であるよりも
よりいつそうあなたになり ぼくになり 時になつたときに

 単なる「祭典」というよりも「祝祭」という感じだ。堅苦しさはない。
 「なる」という動詞の力だ。いまとは違うものになる。そのよろこび。それもただ違うものになるのではなく、そこには「融合」がある。「あなた」と「ぼく」と「時」が融合し、動いていく。
 そのとき「新世界」が生まれる。




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なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?

2020-03-31 09:16:40 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ五輪日程? なぜ「闘病中」?
       自民党憲法改正草案を読む/番外331(情報の読み方)

 きのうの小池会見から予想はついていたことだが。
 2020年03月31日の読売新聞(西部版・14版)の一面トップ。

五輪 来年7月23日開幕/パラ8月4日 IOC承認

 なぜ、いま五輪日程なのか、さっぱりわからない。終息のめどは立っているのか。
 二面の見出しと、記事の一部。

五輪 感染にらみ決断

「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる。その前に決める必要があった」。政府関係者は延期発表から6日後の日程決定について、こう説明した。

 「政府関係者」がだれのことかわからないが、政府がコロナ対策よりも五輪を優先していることがわかる。
 しかし、この「政府関係者」のことばをそのままつかって言えば、「感染者は日に日に増えており、緊急事態宣言が出たら、五輪どころではなくなる」のである。それは「日程」が「来年7月23日開幕」と決まったところで同じだろう。五輪の準備をするよりも、コロナ感染を乗り切ることが優先するだろう。意味のない「日程決定」になってしまう。緊急事態宣言をしたらコロナウィルスが撤退してくれるわけではないのだから。
 これは逆なのだ。
 安倍は一刻も早く「非常事態宣言」を出したいのだ。それも、たぶんコロナ対策というよりは、「ぼくちゃんが首相、いちばん偉い」というために。「非常事態宣言」さえ出せば、何でも思いのまま。森友学園の再調査はしない。桜を見る会の追及はさせない。つれあいの花見を批判させない。そんなことを、しているときではない、と批判を弾圧する。
 でも、「非常事態宣言」を出してしまったら、「五輪をいつにするか」ということは言いにくくなる。「五輪どころではない」というのは五輪が開催できるかどうかということではなく、「首相の任期中に五輪を開きたい」と言いにくくなる。そんなことを言えば、また批判される。もちろん「非常事態宣言」を適用して批判封じはできるが、そういう面倒なことをせずに「五輪をいつにするか先に決めておけばいい」。それだけの論理で動いている。安倍の「ぼくちゃんがいちばん偉い」を満足させるためだけに政治が動いている。
 11面(国際面)には、

米死者10万人超えも 感染症権威

 という記事が載っている。この予測には「いつまで」ということが書いていない。来年の「7月23日」までなのかどうかわからない。
 安倍一派には、世界がどんな状況なのか、まったく理解できていないのだろう。気になるのは、安倍が五輪の会場で「ぼくちゃんが首相(だからいちばん偉い)」と言えるかどうかだけなのだ。
 この野望のために、国民の命が危険にさらされる。
 日程が再設定された以上、これからも新型コロナ感染者の患者数は抑制した形で発表され続けるだろう。「被害は深刻ではない」が装われるのだ。そして、「新型コロナはやがておさまる。成り行きに任せておこう。それよりも、さあ、五輪の準備をしよう」と五輪に向けて働かされるのだ。
 このコロナ隠し(目そらし)は、志村けんの死亡記事からもうかがえる。

志村けんさん死去/ドリフ 新型コロナ闘病中/70歳

 どこにも「間違い」はない。そのとおりのことを書いているが、私は違和感を覚えるのだ。なぜ「新型コロナ感染」ではないのか。なぜ「感染」ということばを避けたのか。「闘病中」と表現してしまうと、なんだか志村個人の問題のように見えてしまう。たとえば「がん闘病中」だと、病気が(死因が)個人の「肉体」に限定される。でも「感染」だと、それが他人に広がっていく「恐怖心」のようなものがある。死んだ人なのだから、そういう「恐怖心」を引き起こすようなことを書いてはいけないという配慮なのかもしれないが、奇妙に感じた。死因も「新型肺炎」とは書かずに「肺炎」とだけ書いてある。
 一方、35面(社会面)には、

遺体対面できず/兄沈痛

 という記事がある。「感染」の危険があるから、遺族でさえ遺体に対面できない。それが新型コロナが原因で死んでいった人と家族の「現実」なのである。「遺体は病院から直接火葬場に送られる予定」ともある。「闘病中」では、こういう悲劇が伝わりにくい。
 こういう「表現」のなかにも、私は安倍の「圧力」を感じる。新型コロナは危険だ、周囲の人への悲劇を招く、という印象が「伝わりにくい」にようにことばが選ばれている。
 安倍の一連の政策について私は何度も「沈黙強要作戦」と批判してきたが、ここにもその「影響」を見ることができる。すべての人間が「沈黙」させられる。志村けんは、安倍のコロナ対策、初動がきちんとしていたら、もしかしたら感染することはなかったかもしれない。政府の「後手後手」の対策が招いた悲劇かもしれない。そういうことが「コロナ闘病中」ということばによって隠されるのである。「闘病」は基本的に個人でおこなうことだが、「感染」は個人の問題ではない。別の人間がいて「感染」が起きるのである。言い直すと、それは「防止」ができるはずのものなのだ。政府が(安倍が)どんな「防止策」をとってきたか。それを追及する意識があるなら、絶対に「新型コロナ感染」という表現にすべきなのだ。「闘病中」では政府の失政が明確にならない。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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小池会見、変だなあ。

2020-03-30 22:12:12 | 自民党憲法改正草案を読む
小池会見、変だなあ。(フェイスブックからの転写)

緊急会見というけれど、どこが「緊急」なんだろうか。

夜間営業の店でクラスターが発生する可能性があるから、夜間の行動を自粛するように、ということが目的だとすると、別に8時からでなくてもよさそうだし、30分も遅れた理由もわからない。

具体的に何人が夜間営業の店に関係しているという数字もなかった。
さらに「夜間の外出自粛」なら、すでに読売新聞の夕刊(西部版・4版)に「夜間外出を自粛するよう、都民に要請している」と書いてある。
なぜ、わざわざ?

簡単に考えると、会見内容(発表内容)で調整していたのだと思う。

さらに奇妙なのは、小池が途中で東京五輪の日程について語ったことだ。

私の感覚では、いまは、そういうことを語る時期ではないと思う。特にいま言う必要もない。

これは逆に言うと、東京五輪の日程を語ることで、話題を少しごまかそうとしたのではないか、ということ。

記者も、まさか五輪の話が出ると思っていなかったからなのか、どうして五輪の話をするのかという質問もなかった。(と、思う。ちょっとゴミだしへ行っていたので、完全に聞いたわけではない。)

いったい、何を隠しているのかなあ。

五輪の話をするとき、安倍の名前が出てこなかったけれど、それもどうしなのかなあ。

安倍とどういう話をして、今回の会見になったのか。

そこに「秘密」がありそうだ。

*

小池会見の怪(その2)

ポイントは
①会見が予告の8時ではなく、大幅に遅れた
②きょうの感染者増加(13人だったっけ?)が少なかった
③少なかった理由を、昨日が日曜で検査件数が少なかったと語ったこと。

これは、きょう(月曜の検査数)が大幅に増えて、きっと明日の感染者数が急増することを意味する。
さらに、それを「暗示」するかのように、今後は「定時発表」に切り換えるといったこと。

ここから推測するに。
小池は、「東京封鎖」まで踏み込んだ発言をしたかった。
あす、感染者が急増するのがわかっているから。
しかし、事前に安倍と打ち合わせをしたとき、安倍が「それはまずい。数字が少なくなっている段階で、そういうことをしたらこれまで感染者数を政府がおさえてきたことがばれてしまう」と押しとどめたのだ。
さらに「緊急事態宣言」を出すなら、それは安倍の仕事であって、都知事の仕事ではない、と主張したのだろう。

その「余韻」のようなものがあって、小池は、最初、五輪の日程を言いそびれた。(安倍の馬鹿野郎、と思っていたのかもしれない。)
で、いったん自分の発言が終わって、他の人のことばを聞いている内に「五輪」を思い出して、追加したのだ。

それにしても、「緊急事態宣言」をどうしようかと苦悩しているときに、1年先の五輪の日程なんて、都民をばかにしている。

あした発表になる東京都内の感染者数は、きっと100人を超えるだろう。
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「医療崩壊」ということばのうさんくささ

2020-03-30 16:29:43 | 自民党憲法改正草案を読む
「医療崩壊」ということばのうさんくささ
       自民党憲法改正草案を読む/番外330(情報の読み方)

「緊急事態宣言を出してほしい」日本医師会が会見、医療崩壊に危機感
「緊急事態宣言を出していただき、それに基づいて対応する時期ではないか」と提案。

 というニュースをネットで読んだ。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5e817d91c5b66149226a148e?ncid=other_facebook_eucluwzme5k&utm_campaign=share_facebook&fbclid=IwAR1jn_ZsqdxswyPIZ3R2ISZOd4ssh6Lcfkx1eU9Pq7hkHMNw02wGZ0X8yfE)
 新型コロナウィルスが拡大すると同時に、「医療崩壊」ということばがあふれるようになった。
 患者が殺到すると「医療の現場が崩壊する。適正な診療ができなくなる」ことを指して言うらしい。
 私はこのことばを聞くたびに怒りが込み上げる。

 おかしいだろう。
 国民の健康が「崩壊」している。「健康崩壊」が起きている。だから、国民は医療に頼る。健康を取り戻したいと願う。国民の健康を守るために医療があるのであって、金稼ぎのために医療があるのではないだろう。
 もちろん医療をとおして金を稼ぐなとはいわない。
 しかし「医療崩壊」が起きて、金を稼げなくなるから、患者に医療機関に押しかけるなというのは、あまりにも身勝手ではないだろうか。
 「医療崩壊」が起きるのは、患者が医療機関に押しかけるからではない。
 患者が押しかけることが予想されるのに、その準備をとらないからだ。
 新型コロナウィルスの場合、中国で感染が拡大した、武漢が都市閉鎖をしたという段階で、日本でも同じことが起きうるということは想像できた。想像できた段階で、病院を増設しろ(隔離病床を確保しろ)、人工呼吸器を増設しろ、新型コロナ感染者とその他の患者を分離するシステムを作れ、というような要求を医療機関はすべきだし、国はそういう指示を各自治体に出すと同時に、そのための支援をすべきだろう。

 いったい国と、医療機関は何をしていたのか。新型コロナウィルスの危険性が大々的に言われるようになったのは1月下旬だ。それから2か月もたっている。その間、国と医療機関は何をしたのか。

 患者が増えそうだ、「緊急事態宣言」が必要だ。「医療崩壊」を防げ、というのはあまりにも国民の「健康崩壊」を無視している。

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延期は金がかかる

2020-03-30 10:08:16 | 自民党憲法改正草案を読む
延期は金がかかる
       自民党憲法改正草案を読む/番外329(情報の読み方)

 2020年03月30日の読売新聞(西部版・14版)の3面(13S版)。

五輪延期 負担駆け引き/会場や人件費増大 数千億円?

 という見出しがでかでかと出ている。
 この時期に、まだ五輪のことを言う。しかも、問題にしているのは「金」だ。
 延期などするから金がかかるのだ。やめてしまえば、もう金はかからない。投資した金が無駄になるというのかもしれないが、つくった施設はつかえるだろう。整備した道路は役に立つだろう。選手村だって分譲住宅として売れるだろう。無駄ではなく、ちゃんと「利益」を生み出している。どうして、その「利益」を計算してみないのか。「利益」があるなら、もう充分ではないか。
 延期すれば、延期期間に金がかかるのは当然のことである。延期しておいて、延期に金がかかる、というのでは話にならない。これから「駆け引き」するのではなく、最初にだれが負担するか決めてから「延期」するかどうか決めないといけない。手順が逆だ。
 だいたい「いつ」開催できるのか。
 新型コロナは「1年」で終息するのか。
 その問題が先だろう。

 延期すれば金がかかる。
 これは五輪だけではない。新型コロナ対策もそうだ。
 クルーズ船が入港したとき、きちんと全員を検査し、その過程で検査体制を確立しておけば、いまごろあわてなくてすんだのだ。世界に対しても新型コロナの危険性を周知させることができ、いまのような混乱を招かなかったかもしれない。
 やれることはすぐにやる、やめるとなったらすぐにやめる。
 クルーズ船のとき、すぐに全員検査をし、隔離のための病院を建設し、感染者を隔離し、人工呼吸器もそろえ、治療に対応していたら、新型コロナはそこで終わっていたかもしれない。試行錯誤がつづいたにしろ、何が必要かもその段階でわかり、知識として共有できたはずだ。
 それをしないで、いまごろになって、

人工呼吸器 増産要請へ/政府 重症者急増に備え(1面の見出し)

 というようなことをやっている。
 なぜいままで「増産要請」を「延期」していたのか。
 クルーズ船のとき、すでに「検査を多くすれば医療崩壊が起きるかもしれない」と言われていた。そのとき「医療崩壊」が起きないように、隔離病棟を増やす、病床を増やす、人工呼吸器を増産するということをしておけばよかったのである。クルーズ船以外にも、韓国で集団感染が起きたとき、イタリア、イランで集団感染が発覚したとき、さらにはそれが拡大しEU全体にひろがり、アメリカにもひろがり、とつづいた。
 「準備する/準備に着手する」機会はいくらでもあった。それをなぜ、いままで「延期」していたのか。
 これがさっぱりわからない。
 どんな病気でも、初期に発見し、治療を開始し、重症化しないようにするのが基本だろう。なぜ「治療開始延期策」をとりつづけたのか。「延期」すればするほど、治療開始を遅らせれば遅らせるほど、治療がむずかしくなり、金がかかるようになる。こんなことは、だれにでも予想がつくことだろう。医療の場合、延期は、そのツケがどっと、突然やってくる。

 なんでも「延期」がいちばんむずかしいのだ。そして、「延期」には五輪と同じように金がかかる。しかし、医療の場合、その「金」の動きが五輪ほど明確にはみえない。むしろ、医療開始がはじまるまでは出費がないから「節約」できていると錯覚してしまう。ここに問題がある。
 隔離病棟を造る(隔離ベッドを用意する)、人工呼吸器を用意する。そういう「準備」を「延期」期間にすると、それは「余分な出費」に見えるかもしれないが、実際に拡大が現実になったとき、すぐにつかえるという効果がある。病気が拡大しなかったら無駄になる、と考えるのかもしれないが、そういう無駄は必要な無駄だ。隔離病棟は一般病棟に転用できるし、人工呼吸器が日本で浮遊でも、他の国に提供することができる。

人工呼吸器 増産要請へ/政府 重症者急増に備え

 に対して腹を立てる必要はないが、

五輪延期 負担駆け引き/会場や人件費増大 数千億円?

 とあわせて読むと、腹が立ってくるのである。五輪を中止してしまえば、その「数千億円」を、新型コロナ対策に回せるのではないか。安倍が「ぼくちゃんがいちばん偉い」といいたいがための五輪なんかやめて、コロナ対策に金をつぎ込むときだろう。五輪を中止して(返上して)、そのために予定していた予算を全部新型コロナ対策に回すと安倍が言えば、それこそ「あべちゃん偉い、国民の命をいちばんに考えるひとこそ首相と呼べる」と評価されるだろう。
 私は安倍はまったく評価しないが、それでも、そういうことは言っておきたい。
 安倍が評価されようが評価されまいが、そんなことは人間の命、国民の命にとってはどうでもいい。人間が生き残ることがいちばん大切なのだ。













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