布村浩一「少し運のわるい日」(「詩的現代」19、2016年12月発行)
布村浩一「少し運のわるい日」はとてもおもしろい。
映画を見に行った。映画は「いい映画かもしれないと思いつつ」以外には語られない。「受けとめられない」「できない」「きえない」という「否定」を含むことばがつづく。映画に集中できない。布村自身の「気持ち/思い」に重点がずれていってしまう。それが「否定」の繰り返しで強調される。「ずれていく」ということが。
不思議な「ずれ」は、じっくりと準備されていることに、おもしろさの理由があるのだと思った。
一行目から「受けとめられない」までがひとつの文章。句点「。」は書かれていないが、書き加えるとしたら「受けとめられない。」長い。長さの中に「うねり」がある。「行ったが」(二行目)「匂いで」(五行目)と、「動詞」が完結せずにつづく。そのあと「画面に映っている/写真家」という「行渡り」。「映っている」は「連体形」。「写真家」を修飾する。「持続」(接続)が、「ずれ」をつくる。「持続/接続」しなければ「ずれ」は生まれない。
「思いつつ/できない」の「つつ」も「持続」だね。
「受けとめ 受けいれようとするが」「きえない」。
妙なものと「つながってしまった」なあ、という感じ。「つながってしまった」気持ちを布村は反復する。
書き出しは一連目の完全な繰り返し。二行目は「席を移動しようとふりかえったが」と一連目の「行ったが」と同じ「が」で終わり、次の行へとつづいていく。五行目に「感じがない」と「否定」を含むことばが出てくるところが、ますます繰り返しの印象を強める。
「起承転結」の「承」である。
そのあとが絶妙。
「おれなら次の上映まで入らない」という「否定」を飲み込んでいる。「待つ」と「思う」いう「否定」を含まない動詞で、「反復」を切断する。連が分かれていないが、ここは「転」にあたる。
「肯定」を半分ひきずりながら「ある」「きている」という動詞が出てくる。ただし「ある」は「が」という逆接を準備し、「きている」は「のか」という疑問を準備する。そして「わからない」という「否定」をとおって「なった」という「結論」(結)に集約する。
リズムがとてもおもしろい。繰り返すことで「ぐち」が「思想」にかわる。いや「ぐち」も「思想」なのだけれど、「ぐち」を「論理的に補強することば」にかわる。
「思想」というのはなんでもないことを「論理」っぽく言いなおしたもの、「感情」を排除した「意味」をつくりだす運動のことかなあ。
「いらいらするなあ」「いやだなあ」というだけのことなのに、その「感情」を振り払って、乾いた「論理」にする。あっ、と驚き、わはっはっはっ、と笑いだしてしまう。「論理」なんだけれど、「無意味」。
「無意味」は「絶対的存在」と言い換えてもいい。
それ以外に言いようがない、ということ。
映画館のこの定義は、この詩の、この瞬間にしか成立しない。だから「絶対的な無意味」。そしてそれが「絶対的無意味」だから「永遠」でもある。侵しようがない「意味」になる。
そのまわりに「事実/意味」はいろいろあるのだが、全部、拒絶してしまっている。
純粋・無垢になっている。
このあとの「余韻」がまたすばらしい。声を上げて笑ってしまったのだが、笑ったあとで、何かがじわりと押し寄せてくる。
映画館の中で、布村は「ゆっくり」と「写す」。映画館で出会った人を。同時に人と出会った布村自身を。たぶんソール・ライターも「他人」を写しながら「自分」を写したんだろうなあ。ゆっくりと。「絶対」が生まれてくる瞬間を。
これは布村が写し取った「色の美しい」映画館。布村にしかとらえられない美しいことば。
ことし読んだ詩のなかで(まだ一月あるけれど)一番気持ちがいい作品。傑作。
布村浩一「少し運のわるい日」はとてもおもしろい。
「写真家ソール・ライター 急がない人生でみつけた13のこと」
という映画を観に行ったが
映画館の前の席に
すわった二人づれの
おばあさんのほうからながれてくる強烈な香水の匂いで
大きな画面に映っている
写真家ソール・ライターの重いみじかいコトバをしっかり受けとめられない
今日は少し運のわるい日
いい映画かもしれないと思いつつ
でも充分に受けとめることができない
この事態を受けとめ 受けいれようとするが
映画の上映がはじまってから入ってきた二人づれを
うらめしくおもう気持ちはなかなかきえない
映画を見に行った。映画は「いい映画かもしれないと思いつつ」以外には語られない。「受けとめられない」「できない」「きえない」という「否定」を含むことばがつづく。映画に集中できない。布村自身の「気持ち/思い」に重点がずれていってしまう。それが「否定」の繰り返しで強調される。「ずれていく」ということが。
不思議な「ずれ」は、じっくりと準備されていることに、おもしろさの理由があるのだと思った。
一行目から「受けとめられない」までがひとつの文章。句点「。」は書かれていないが、書き加えるとしたら「受けとめられない。」長い。長さの中に「うねり」がある。「行ったが」(二行目)「匂いで」(五行目)と、「動詞」が完結せずにつづく。そのあと「画面に映っている/写真家」という「行渡り」。「映っている」は「連体形」。「写真家」を修飾する。「持続」(接続)が、「ずれ」をつくる。「持続/接続」しなければ「ずれ」は生まれない。
「思いつつ/できない」の「つつ」も「持続」だね。
「受けとめ 受けいれようとするが」「きえない」。
妙なものと「つながってしまった」なあ、という感じ。「つながってしまった」気持ちを布村は反復する。
今日は少し運のわるい日
席を移動しようとふりかえったが
横の方にもうしろの方にも
人がいて
移動するほど空いている感じがしない
何で映画がはじまってから映画館にはいってきたりするんだろう
おれなら次の上映を待つがなと思うのだが
映画館は
映画を観たい人が
集まる場所ではあるが
どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所になった
書き出しは一連目の完全な繰り返し。二行目は「席を移動しようとふりかえったが」と一連目の「行ったが」と同じ「が」で終わり、次の行へとつづいていく。五行目に「感じがない」と「否定」を含むことばが出てくるところが、ますます繰り返しの印象を強める。
「起承転結」の「承」である。
そのあとが絶妙。
何で映画がはじまってから映画館にはいってきたりするんだろう
おれなら次の上映を待つがなと思うのだが
「おれなら次の上映まで入らない」という「否定」を飲み込んでいる。「待つ」と「思う」いう「否定」を含まない動詞で、「反復」を切断する。連が分かれていないが、ここは「転」にあたる。
「肯定」を半分ひきずりながら「ある」「きている」という動詞が出てくる。ただし「ある」は「が」という逆接を準備し、「きている」は「のか」という疑問を準備する。そして「わからない」という「否定」をとおって「なった」という「結論」(結)に集約する。
リズムがとてもおもしろい。繰り返すことで「ぐち」が「思想」にかわる。いや「ぐち」も「思想」なのだけれど、「ぐち」を「論理的に補強することば」にかわる。
「思想」というのはなんでもないことを「論理」っぽく言いなおしたもの、「感情」を排除した「意味」をつくりだす運動のことかなあ。
「いらいらするなあ」「いやだなあ」というだけのことなのに、その「感情」を振り払って、乾いた「論理」にする。あっ、と驚き、わはっはっはっ、と笑いだしてしまう。「論理」なんだけれど、「無意味」。
「無意味」は「絶対的存在」と言い換えてもいい。
それ以外に言いようがない、ということ。
どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所
映画館のこの定義は、この詩の、この瞬間にしか成立しない。だから「絶対的な無意味」。そしてそれが「絶対的無意味」だから「永遠」でもある。侵しようがない「意味」になる。
そのまわりに「事実/意味」はいろいろあるのだが、全部、拒絶してしまっている。
純粋・無垢になっている。
このあとの「余韻」がまたすばらしい。声を上げて笑ってしまったのだが、笑ったあとで、何かがじわりと押し寄せてくる。
今日は少し運のわるい日
ソール・ライターはゆっくりと歩く
ソール・ライターは街なかをゆっくり歩いて
人をゆっくりと写す
色の美しい写真
色の美しい
よい写真を撮っていた
映画館の中で、布村は「ゆっくり」と「写す」。映画館で出会った人を。同時に人と出会った布村自身を。たぶんソール・ライターも「他人」を写しながら「自分」を写したんだろうなあ。ゆっくりと。「絶対」が生まれてくる瞬間を。
どんなつもりで観にきているのか
わからない
謎の人の集まる場所
これは布村が写し取った「色の美しい」映画館。布村にしかとらえられない美しいことば。
ことし読んだ詩のなかで(まだ一月あるけれど)一番気持ちがいい作品。傑作。
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