詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(112)

2021-04-19 10:43:06 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

机上拾遺


<blockquote>
ぼくが生活のなかに酒を濯ぎこむと
主のいないただの大きな褥になるだろう
</blockquote>
 「濯ぐ」は「すすぐ」ではなく「そそぐ」と読ませるのか。「ぼく」と「主」が「いない」の関係もよくわからない。

やはや永遠の酔いが遠くへ去つたあとの平安に
だれひとり訪つてくるものとてない

 だれも訪ねてこないから「主」がいないのか。
 それは嵯峨にとって好ましいことなのか、好ましくないことなのか。
 好ましいことなのだろうと、想像して読む。

 

 

 

 


*

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伊藤浩子『数千の暁と数万の宵闇と』

2021-04-19 10:19:57 | 詩集

 

伊藤浩子『数千の暁と数万の宵闇と』(思潮社、2020年10月31日発行)

 伊藤浩子『数千の暁と数万の宵闇と』に書かれていることばは、私には、ありま親身には感じられない。ただ、「Series」の「desain#2」の次の部分には、思わず傍線を引いた。


帰り道の夜空に
新しい星だけを捜した

あれはジュリキエデス
これはコッシート


 いやあ、美しいなあ。いや、「新しいなあ」。
 ところが、その感動を、次の注釈が叩き壊してしまう。
 「ジュリキエデス」「コッシート」には*がついていて、「*筆者による造語」。そんなことは注釈されなくたって「新しい星」と書いてあるのだから、わかる。
 ほんとうは別の名前がついている。けれど、それに対して「新しい名前」をつける。「新しい名前」で呼ぶ。このことを、詩、と呼ぶ。陳腐な例だが、たとえば誰かが伊藤を伊藤ではなく、バラの名前「プリマベーラ」と呼ぶ。「新しく」プリマベーラと呼ぶことで、伊藤を自分だけの存在にかえる。その「新しい」には、かならず筆者自身の「肉体」があらわれる。その瞬間が美しい。
 ところが、この美しさを伊藤は伊藤の注釈で汚してしまう。これは、なんというか、無惨である。

 別なことばで言い直そう。
 「肉体」とは「肉体になってしまったことば/無意識になってしまったことば」のことでもある。「思想」のことである。「プリマベーラ」に戻って言えば、その誰かは「プリマベーラ」は「美しい/大切」と思っているか、その名前で伊藤を呼んだのだ。その人がほんとうに思っていることをあらわすことばは、たとえ花の名前であっても「思想」なのだ。「現代用語辞典」や「流行の外国人思想家の著作物」に書かれていなくても「思想」なのだ。
 翻って。
 伊藤の「肉体=思想」の特徴は、それが「カタカナ」であるということだ。「カタカナ」は、多くの場合「外来語」を意味する。外国からはいってきて、日常になってしまったもの、肉体になってしまったものが「カタカナ」で書かれる。
 伊藤のことばの多くは、「漢字熟語」で書かれていたとしても「外来語(翻訳語)」である。外国を舞台にした作品もあるから、伊藤は海外育ちで、そういう風景が「肉体」になっているのかもしれない。
 それは、それでいいと思う。
 でも、一方で、私は、伊藤の書いていることばが外国を舞台にするのではなく、日本を舞台にするならもっとおもしろいと思う。
 それはまた飛躍したことばで言い直せば、たとえば「ゲシュタルト」というようなことばが伊藤の「造語」であったらどんなに楽しいだろうということである。ほんとうに「カタカナの音」が伊藤の肉体になっているのなら、「ゲシュタルト」を「造語(新しいことば)」として書けるはずである。
 しかし、「ゲシュタルト」が、たとえば構想力のような意味でつかわれる「思想用語」であるなら、何といえばいいのかなあ、それは「新しい」とは言えない。「意味の来歴」を持っている。「過去」を持っている。「古いことば」だ。
 「ゲシュタルト」を「構想力」ではない何か別の、いままでのことばでは言い表すことのできないものを指し示すためのものとして動かさない限り、それは「伊藤の肉体のことば」ではなく、伊藤が「ゲシュタルトの肉体」に取り込まれてしまうことになる。それでは詩を否定することにならないか。

 もう一か所、思わず傍線を引いたのが「海辺のホテル」の次の行。


殴らないで、と鏡映のわたしが水平線に向かって叫んでいる。

 「鏡映」は私の知らないことばだ。そういうことばがあるかどうか知らない。私はつかったこともないし、読んだこともない。で、そのことばが伊藤の「造語」であるかどうかは気にしいないで、そのままにしておく。
 私が、思わず、「ほーっ」と声を漏らしたのは「殴らないで」ということばだ。
 この「殴らないで」だけが、「文体」が違う。簡単に言うと、「鏡映」はいかにも伊藤らしいことば(漢字熟語)だが、「殴らないで」は「漢字熟語」になることを拒んでいる。
 この一文のつづきは、

届かないと知りながら、叫び声に陶酔する欲望の果てに、

 である。この「陶酔する欲望の果て」という「漢字熟語」をくぐりぬけるときの窮屈な刺戟と「殴らないで」の無防備な感じは、ずいぶん違う。とても同じ「文体」には思えないのである。
 で、その、突然あらわれた無防備な文体を、私は美しいと思うのだ。最初に引用した星の名前のように。
 「遠いところ」には、こういう連がある。

影のように離れない匿名が
肌を撫でて過ぎる
聞き覚えのない外国語の挨拶にも
不確かな快楽を覚え
求めていたのだ
もう長いこと ずっと
名前と日常を棄てた短いとき
自分の中核に近づくこと
ここは遠いところ
どこよりも誰よりも
遠いところ

 「日本語の肉体」と「翻訳語の肉体」が、私には「分離」して感じられる。この「分離感」を「ことばのエッジ」と呼ぶ人もいるかもしれない。そうとらえればおもしろい詩なんだろうなあ、とは頭で考えることができるが、私には何か納得できないものの方が多く残る。

 

 


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アメリカはいつだってアメリカ至上主義

2021-04-19 08:45:14 | 自民党憲法改正草案を読む
読売新聞のこの記事の、以下の部分に注目。
↓↓↓↓
「日本に過度な要求をした揚げ句、自国経済を優先して中国と妥協し、はしごを外すことはないのか」。日本政府内に漂う懸念だ。
↑↑↑↑
これは、当然、起きることだ。アメリカはいつだってアメリカ至上主義なのだ。
「新冷戦」と読売新聞ははしゃいでいるが、「冷戦時代」にどういうことがあったか思い出せばすぐわかる。
ニクソン・キッシンジャー時代、「ピンポン外交」でアメリカは中国と「相互承認」をした。(アメリカは台湾を切り捨てた。)
あわてて、佐藤からかわった田中角栄が1972年に中国を訪問し、「日中国交」を樹立した。
米中国交正常化(国交樹立)は日付的には1979年(カーター時代)と日本より遅いが、取り組み、実質的な関係は日本より早い。「ピンポン外交」は「頭越し外交」とも言われた。
アメリカは自国の利益のためなら、簡単に「同盟国」を切り捨てる。日本も簡単に切り捨てられるだろう。
アメリカは米中国交樹立後、台湾との相互防衛条約(日米安保条約のようなもの)を失効させている。
そのアメリカが「台湾海峡」を問題にし、台湾防衛に口を出し、日本にそれを肩代わりさせようとしている。
日中での軋轢を増加させておいて(同時に、日本の予算に占める軍備費を増やすことで経済政策を縮小させ)、米国の経済政策を充実させようとしている。
アメリカの経済が中国をもっと重視するようになると、さっさと日本の頭越しに、中国と経済連携を締結するだろう。
ニクソン・キッシンジャー時代を思い起こせばはっきりする。
角栄は、偉かった。
いろいろ問題もあるが、少なくともアメリカの言いなりではなかった。
アメリカに先んじて、日中国交を樹立させた(正式な関係)。ベトナムへの自衛隊派兵にも反対している。(一説には、そのために角栄は首相から追放された。)
角栄自身の「政治哲学」があった。
安倍→菅は、単に、アメリカに媚びて、自分の「地位」にしがみついているだけだ。
日本は「冷戦時代」のキューバになってはならない。
日本と中国の関係は非常に深い。
関係を深めるべきは中国である。
近い将来、日本人は中国に出稼ぎに行く、中国に移民するしか生きる方法がない。
もっと現実を見るべきだ。
アメリカ頼みの菅の外交のお粗末さは、コロナ対策でも浮き彫りになった。
菅がファイザーに直接交渉してワクチンを確保する予定だったが、あっさり蹴られている。
読売新聞は、それでも菅におべっかをつかって、「9月までに全員分確保」と報じているが「全員」は「16歳以上の対象者」にすぎないし、「確保」は「追加供給のめど」にすぎない。接種が9月までに終わるわけではない。
いま現在だって、医療機関従事者の接種が完了しているわけではない。いつ終わるか、だれも知らない。
日本国民のほとんどがワクチンの接種もしていない状況で、それでも「五輪開催」を主張している。
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