ピーター・ファレリー監督「グリーンブック」(★★★)
監督 ピーター・ファレリー 出演 ビゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ
アカデミー賞作品賞受賞作品。
予告編では手紙のシーンがおもしろかった。本編ではどう生かされているか。それを楽しみに見に行った。さりげなくて、しかもとても効果があった。
マハーシャラ・アリがビゴ・モーテンセンに手紙の書き方を指導している。ほとんど代筆という感じなのだが。
その二人が「グリーンブック」に掲載されているホテルの一室に泊まる。そこでの会話。マハーシャラ・アリには兄弟がいるのだが、疎遠だ。ビゴ・モーテンセンが「手紙を書けよ」だったか「会いに行けよ」だったか、そんなことを言う。マハーシャラ・アリは「兄が私の住所を知っている」というような返事をする。ビゴ・モーテンセンは少しあきらめながら、それでも「寂しくなったら、頼ることも必要だ」というようなことを言う。それで会話は終わるのだが……。
ラストシーン。クリスマスの夜。ビゴ・モーテンセンを家に送り届けた(ボスと運転手が交代している)あと、自宅に帰ったマハーシャラ・アリ。ひとりで寂しい。ふとビゴ・モーテンセンを思い出したのだろうか。ビゴ・モーテンセンが盗んだ翡翠をテーブル(?)の上に置いてながめる。それからシーンがかわって、ビゴ・モーテンセンの家の玄関。マハーシャラ・アリがシャンパンを抱えて立っている。会いに来たのだ。
ここ、涙が、突然こみあげてくる。
いやあ、いいなあ。うれしいなあ。
ボスと運転手が交代し、雪の道を車で走ってくるシーンで、二人の関係がボス・運転手という上下関係でなくなったことが示されているのだが、これは家族でクリスマスという約束を守らせたいという「同情」、あるいは「配慮」とも受け取ることができる。マハーシャラ・アリの「紳士性」の象徴とも、理解できる。
でも、ビゴ・モーテンセンの家を訪問したのは違う。寸前、「家に寄っていけ」という誘いを断っているのだから。その、いったん断った「訪問」を思い出したようにして、やってくる。寂しかったら、人に頼る。弱さを受け入れる。自分は弱い人間であるということを、人に見せる。そういうことができる人間に、マハーシャラ・アリは変わったのだ。ビゴ・モーテンセンと「旅」をすることで。
この映画を「最強の二人」や「ドライビング・ミズ・デイジー」と比較する人がいるが、私は「真夜中のカウボーイ」を思い出した。ラストシーン。デスティン・ホフマンが小便を垂れ流しながら死んで行く。それをジョン・ボイトが看取る。その、小便を垂れ流して死んで行くときのダスティン・ホフマン。その胸のなかには、そばに頼れる人がいるという「安心感」がやはりあったのではないか、と思う。見たのは遠い遠い昔だが、あの時も私は泣いてしまったなあ、と思い出すのだった。
人は弱くなることができる。弱くなっても生きて行ける強さを持っている。そういうものが出てくる瞬間。それを美しいと思う。ラストシーンの演技は、マハーシャラ・アリにしかできなかったかもしれない。アカデミー賞(演技)は、実在の人物を演じると受賞しやすい。演技に対する評価と、登場人物に対する評価が混同されるのかもしれない。マハーシャラ・アリの受賞にも、そういう部分があるかもしれないが、ラストシーンはとてもいい。彼が天才的なピアニストであるということを忘れてしまう。ひとりの人間として、そこに立っている。マハーシャラ・アリ、おめでとう。
(2019年03月03日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン13)
監督 ピーター・ファレリー 出演 ビゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ
アカデミー賞作品賞受賞作品。
予告編では手紙のシーンがおもしろかった。本編ではどう生かされているか。それを楽しみに見に行った。さりげなくて、しかもとても効果があった。
マハーシャラ・アリがビゴ・モーテンセンに手紙の書き方を指導している。ほとんど代筆という感じなのだが。
その二人が「グリーンブック」に掲載されているホテルの一室に泊まる。そこでの会話。マハーシャラ・アリには兄弟がいるのだが、疎遠だ。ビゴ・モーテンセンが「手紙を書けよ」だったか「会いに行けよ」だったか、そんなことを言う。マハーシャラ・アリは「兄が私の住所を知っている」というような返事をする。ビゴ・モーテンセンは少しあきらめながら、それでも「寂しくなったら、頼ることも必要だ」というようなことを言う。それで会話は終わるのだが……。
ラストシーン。クリスマスの夜。ビゴ・モーテンセンを家に送り届けた(ボスと運転手が交代している)あと、自宅に帰ったマハーシャラ・アリ。ひとりで寂しい。ふとビゴ・モーテンセンを思い出したのだろうか。ビゴ・モーテンセンが盗んだ翡翠をテーブル(?)の上に置いてながめる。それからシーンがかわって、ビゴ・モーテンセンの家の玄関。マハーシャラ・アリがシャンパンを抱えて立っている。会いに来たのだ。
ここ、涙が、突然こみあげてくる。
いやあ、いいなあ。うれしいなあ。
ボスと運転手が交代し、雪の道を車で走ってくるシーンで、二人の関係がボス・運転手という上下関係でなくなったことが示されているのだが、これは家族でクリスマスという約束を守らせたいという「同情」、あるいは「配慮」とも受け取ることができる。マハーシャラ・アリの「紳士性」の象徴とも、理解できる。
でも、ビゴ・モーテンセンの家を訪問したのは違う。寸前、「家に寄っていけ」という誘いを断っているのだから。その、いったん断った「訪問」を思い出したようにして、やってくる。寂しかったら、人に頼る。弱さを受け入れる。自分は弱い人間であるということを、人に見せる。そういうことができる人間に、マハーシャラ・アリは変わったのだ。ビゴ・モーテンセンと「旅」をすることで。
この映画を「最強の二人」や「ドライビング・ミズ・デイジー」と比較する人がいるが、私は「真夜中のカウボーイ」を思い出した。ラストシーン。デスティン・ホフマンが小便を垂れ流しながら死んで行く。それをジョン・ボイトが看取る。その、小便を垂れ流して死んで行くときのダスティン・ホフマン。その胸のなかには、そばに頼れる人がいるという「安心感」がやはりあったのではないか、と思う。見たのは遠い遠い昔だが、あの時も私は泣いてしまったなあ、と思い出すのだった。
人は弱くなることができる。弱くなっても生きて行ける強さを持っている。そういうものが出てくる瞬間。それを美しいと思う。ラストシーンの演技は、マハーシャラ・アリにしかできなかったかもしれない。アカデミー賞(演技)は、実在の人物を演じると受賞しやすい。演技に対する評価と、登場人物に対する評価が混同されるのかもしれない。マハーシャラ・アリの受賞にも、そういう部分があるかもしれないが、ラストシーンはとてもいい。彼が天才的なピアニストであるということを忘れてしまう。ひとりの人間として、そこに立っている。マハーシャラ・アリ、おめでとう。
(2019年03月03日、ユナイテッドシネマキャナルシティ・スクリーン13)