SHOじいの独り言

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ミニ自分史ー 懐メロリクエスト

2010-07-13 16:18:06 | 日記・エッセイ・コラム

30数年前に四国香川県の工業高校を卒業後神戸の会社に就職し、25年間ずっと設計の仕事を続けてきて、26年目のある日突然資材部への異動を命ぜられました。私にとっては「青天の霹靂」でそれこそ180度の方向転換でした。その資材に2年半、やっと事務系の業務にも慣れた頃、札幌の子会社への出向命令が出てしかも単身赴任3年間というものでした。

その後、紆余曲折があって2年半で神戸に復帰、再び資材部門で働きだして3カ月経過した頃、今度は突然のアメリカニューヨークへの長期出張命令、そしてアメリカ出張が6カ月に達した時、出張中に北米プロジェクト部門に転籍になって現在に至っています。

この間アメリカ出張中に実父を亡くしました。あの時、忘れもしないアメリカ時間の深夜(日本時間は昼間)に家内から電話があり、「お父さん、もうおじいちゃんの人工呼吸装置を外してもらうで、ええな!」と電話の向こうで泣きながら叫んでいたのを今も忘れることができません。で、今回の自分史懐メロ編は札幌での単身赴任生活時代の事になります。

1993年から約2年半の間札幌に単身赴任していましたが、仕事の方は私が責任者だった現場で人身事故が発生して深夜に救急病院へ駆けつけたり、あれこれ難題続きで毎日気の休まる時があまりない状態でした。客先ともギクシャクし、社内の人間関係も最悪状態、特に北国の冬は身も心も凍りついてしまいそうで、一時は人間不信に陥ったりしました。

せっかく雪国に赴任したのですが、残念ながらスキーができなかったし、運転免許も持っていなかったのでもっぱら列車やバスであちこちへ出かけ、特に温泉巡りをしてストレス解消を図っていました。

こんな時にに出会ったのが高山厳さんの”心凍らせて“で、2年半の間この歌を何回も繰り返し聴いたり、「ススキノ」に繰り出してスナックなどで歌い、心の応援(演)歌にしてなんとかこの状況を切り抜けることができました。

また、当然1995年の阪神・淡路大震災の時には札幌に居ました。朝一番のテレビで震災を知り、大慌てで高砂の自宅に電話をするのですが全然通じません。結局、3時間後にやっと電話がつながり、家族の無事を知ることができるありさまでした。

まあ、そんなこんなで悪夢のような(?)2年半も終わりに近づいた頃、単身赴任生活最後の日曜日の夕方、いつものように夕食を作りながら酒をちびちびや(飲)りながらラジオを聴いていると、私の名前とリクエスト曲”心凍らせて“の曲紹介があり、「豊平地区にお住まいの北岡さん、神戸の方に帰られても可能ならこの番組を聴き続けてください、お元気で!」とのメッセージ付きでした。そのあと、ラジオから流れる”心凍らせて“を聴きながら2年半のあれやこれやを振り返り、神戸に帰ることができる喜びで目頭が熱く熱くなりました。その番組のパーソナリティーの名前は高橋重実さんだったと記憶しています。

”心凍らせて“は今でも私の応援(演)歌で、カラオケに行くと他の人に歌われないよう必ずいの一番にこの曲を歌います。

もちろん、この後に続くことになるニューヨークへの長期出張時にも応援(演)歌としてこの曲のCDを持参したことは言うまでもありません。

2002年頃(?) 四国放送ラジオにリクエスト