神佛の加護をいただく

神佛の
ご加護をいただくには・・・
密教修行を通じて体験したことを書き続けたいと思います。

生きることに意味がある 生き方が大事

2019年02月17日 15時31分31秒 | いじめ

人間として、この世に生を享けました。

そして、私は、今を生きている。


それでは、生きることの意味とは、

どのようなことなのでしょうか。

 

今を生きています。

しあわせを感じている人もおれば、

その反対に、不幸であると感じている人もおりましょう。

イライラしていたり、ムシャクシャしていたり、不安だったり、

不平不満を抱いていたり、心の三毒、貪瞋痴に病んでいる人も

少なからずいるのではないでしょうか。

 

人間は千差万別です。

各個人の業、因縁により宿業も様々です。

人それぞれに、因縁の軽重があり、

信心の有無、浅深もあります。

また、佛縁の有無もあります。

 

その答えは、生きることに意味があり、

生き方に意味があるのです。

 

偉そうな人間に成るよりも、

尊い人間に成ることを目指すのです。

天上天下、唯我独尊と、釈迦牟尼佛陀さまは、教えてくださいました。

人間ひとりひとりが天上天下、唯我独尊、なる存在であると。

 

佛教、密教の教えは、

真のしあわせを得るための教えであり、

しあわせに生きることなのです。

 

それには、先ず、自分の命は自分で護ることです。


子供のイジメを、学校側に訴えても、まともに取り合ってもらえなかったが

故に母子が心中したという、痛ましい結果を招いてしまったことがありました。


イジメの加害者は、イジメをしていて楽しいのでしょうか。

イジメの加害者の親は、イジメの事実をどう思っていたのでしょうか。


どうして、こうなってしまったのでしょうか。

答えは、イジメは災難、あるいは厄難である、ということです。

それも、自らに降りかかった火の粉なのです。つまり業なのです。

 

このことから逃れるには、神佛の加護をいただくしかないのです。

 

イジメの加害者も、イジメの被害者も、学校側も、市教委側も

それらに携わる人たちは皆、共に凡夫なのです。

 

凡夫が凡夫に救いを求めたところで、救われることがないのです。

イジメがいっこうに減らない現状を見れば、理解できると思います。

あまりにも痛ましいことです。

 

ご冥福をお祈り申しあげます。

南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛

無量寿、無量光の大悲に包まれて、

阿弥陀さまの浄土、極楽国に往生し、

母子ともども、しあわせでありますように。   合掌

 

それでは、人が人をイジメることは、

人として善い行い、人として悪い行い、

どちらが正しい行いなのでしょうか。

 

イジメの加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

 

善悪の区別ができない者を、人間とは言わないのです。


両親の虐待により、実の娘を死に至らしめた、

あまりにも悪逆非道な行いもありました。

犯罪者に成り下がった両親たちは、

どこで、道を踏み間違えたのでしょうか。


虐待と躾けとは、どう違うのでしょうか。

虐待は無慈悲なる行い。イジメの最たるものです。

躾けは慈悲の行いです。愛情の表われです。


躾けるということを、虐待することだと、考え違いをしていませんか。

虐待をすることは、人として善い行いですか。

虐待をすることは、人として悪い行いですか。

虐待をしていて、楽しいのでしょうか。


ご冥福をお祈り申しあげます。

南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛  南無阿弥陀佛

無量寿、無量光の大悲に包まれて、

極楽浄土に往生して、しあわせでありますように。   合掌


自らをよりどころとして、他をよりどころにしてはならない。

法をよりどころとして、他の教えをよりどころにしてはならない、と

釈迦牟尼佛陀さまは、教えて下さいました。


佛法僧の三寶を信ずることにより、信心を深めることによって、

神佛のご加護をいただくことができるのです。


要は、目には見えない神佛の存在を、

神佛の加護を信じることが、できるのか、

神佛の加護を信じることが、できないのか。


悩み苦しみから解放され、災難から逃れることができるのでしょうか。

徳を積む、思愛和施になるには、どうしたらよいのでしょうか。


佛法僧の三寶に帰依する。

常に懺悔心と、感謝の心を忘れないこと。

十善戒を保つこと。

南無大日遍照金剛を唱えること。


南無八正道

南無正見 南無正思惟 南無正語 南無正業

南無正命 南無正精進 南無正念 南無正定

八正道の教えを信じて行うこと。


私自身も生身の人間ですから、過ちを犯すこともあります。

そうならないためにも、常に懺悔心と、

感謝の心を忘れないようにしています。


朝夕の勤行は、三密の行をします。

懺悔滅罪、罪障消滅のために祈ります。


坐禅の姿で、ご本尊さまの前に坐ります。

口には、ご本尊さまの真言を唱えます。

心は、南無大聖大悲不動明王と念じています。


三密の行とは、自らの身と、口と、意(心)を一致させることにあります。

そうすることによって、ご本尊さま大聖大悲不動明王さまと一体であると、

一心同体であることを感じ、信じ続けることを、心がけています。


例えて言うと、お不動様に成りきる、

真言そのものに成りきる、ということです。


真言念誦は懺悔の心から始まり、感謝の心でしめくくります。


信じて、拝んで、行ずる。

初心を忘れないことを、肝に銘じております。


話は変わりますが、私自身、身内の恥をさらすようで、

今まで踏ん切りがつかなかったのですが、

私は、父親の酒乱で苦しんできました。

もちろん、母親も、弟も、共に苦しんできました。

一家団欒のはずが、家庭内に安らぎの場はありませんでした。


師匠に相談したことがありましたが、一笑に付されました。

 

そして、殺すか、自殺するか、真剣に悩みました。

間違いなく、殺意はありました。が、

殺すことも、自殺することも出来ずに

苦しみもがきながら、悔し涙を流しながら、

自分を責め続けていました。


それ以来、誰にも頼らずに、佛教書を読み漁り、

救われるには、どうしたらいいのか、模索し続けました。


今では、ここまで導かれたことを、神佛に感謝しております。

 

ここまで来るのに、何十年かかったこと、か。


その頃の父親も、苦しんでいたということです。

今では後期高齢者となり、丸くはなりましたが、

まだまだ、短気で、自己中で、嫌な面があります。

下らないことを言っては、ひとりでウケています。が

酒を飲んでも荒くれるようなことは無くなりました。


そして、今までの苦労が、無駄ではなかったと、信じております。


それと、もうひとつ、私の父方の先祖の誰かが

虚無僧(こむそう)を、殺してしまったということです。

その他、詳細は不明ですが、嘘偽りではないようです。

その祟りもあったのでしょうが、不幸の原因を

すべて、殺された虚無僧の祟りのせいにはしませんでした。

因縁の軽重からすれば、重いほうでした。

私の信心は、まだまだ、浅いままなのでしょう。


だから、イジメや虐待、DVなど、

相手を苦しめるようなことをする人に対しては

心の底から嫌悪感を覚えます。

 

それだから


イジメの加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

イジメの被害者 息災 南無大慈大悲観世音菩薩

 

であり

 

虐待の加害者 降伏 南無大聖大悲不動明王

虐待の被害者 息災 南無大慈大悲観世音菩薩

 

です。


南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛  南無大日遍照金剛


終りまで読んでいただき、ありがとうこざいます。

ありがとうございました。

 

あなたの抜苦与楽の為に

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン

オン ア ビ ラ ウン ケン バサラ ダト バン


合掌

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