「松本」学、あるいは「松本」考:9
9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?
松本に関わったものは、「何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?」と疑問に思うことが多い。殊更に、「長野市」と対抗意識が強いわけでもなく、不満不平があるという訳でもないのだが・・・ 人口の規模」、歴史的背景」、県内のほぼ中央という地理的条件」など、「県庁所在地」たるに足る条件をそろえているように思えるのだが・・・なぜなのだろうか?
疑問である。
歴史を振り返ってみよう・・・
『1871年(明治4年)、廃藩置県により松本藩は松本県になった。その後、松本を県庁所在地とする筑摩県が成立。1876年(明治9年)には、筑摩県庁の焼失により、長野県に編入された。』
なんか、成行ですね。
歴史は繰り返すというか!、過去にはこんなことがありました。
-----、松本が「府中」と呼ばれていたころ、国府は女鳥羽川沿いにありました。今の「サッカー場」と「総社」の間辺り・・・ところが洪水で、国府は水没してしまいます。時期は、鎌倉期初期とされています。その時、緊急避難ということで、善光寺脇に、「後丁」として「国府」を避難させました。長野市に、後丁(後町)という町が今でも残っています。
ただし、善光寺後丁(後町)を国府として、無理やり機能させたのは、大塔合戦(大文字一揆)の前の短期間だったとされています。それ以前も以後にも「機能」の実績がありません。
大塔合戦 -----
『大塔合戦とは、応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及び、それらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる』
『室町時代初期に信濃国で起きた大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。』
鎌倉初期、緊急避難した「後丁」は、府中へ戻っています。「井深後丁」です。
松本にあった県庁は、また戻ってくる日があるのでしょうか?
仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。