ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか? :9-1:府中消滅の因

2024-08-18 16:48:43 | ひとりごと

「松本」学、あるいは「松本」考:9


9:何故!松本が「県庁所在地」でないのだろうか?


:9-1:府中消滅の因


『仮説ですが、井深氏の祖先:井深勘解由左衛門は、国府の「文官」だった可能性が高く、井深氏の屋号が「後庁氏」だという説も可能性が高い。』-----


国府の役割は?-----奈良時代から平安時代に、令制国の国司が地方統治のための役所として拠点とした建物。国庁(政務・儀礼を行う政庁)。


時がたち、甲斐の信玄が、膨張政策を極めてくると、当然に府中・小笠原家と衝突するようになる。.


『天文14年(1545年)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、高遠城を陥落させ、福与城の頼親を、龍ヶ崎城を陥落させる。武田勢は伊那を制圧すると、小笠原長時は村上義清や仁科盛能、藤沢頼親らと諏訪郡へ侵攻するが、塩尻峠で武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。』
『林城の戦いは、武田晴信と小笠原長時の戦 ---天文17年(1548年)塩尻峠の戦いで小笠原軍に大勝した晴信は、天文19年(1550年)信濃国の松本平に侵攻。遂に長時の居城である林城の攻略に乗り出した。支城の犬甘城が落ちると、深志城、岡田城、桐原城、山家城の将兵は雪崩をうって逃亡。長時はこれを知ると、林城を捨て平瀬城に移り、その後信濃国の豪族村上義清を頼って落ち延びた。一連の戦いにより、晴信は筑摩郡を平定した。』


上記は、府中小笠原家・当主小笠原長時の、府中追放の過程であるが、追放の過程を、ことさら追うのが本意ではない。長時の居城・林城を、防衛線の如く取り囲む山城がいとも簡単に落ちたかが肝要である。それも、塩嶺峠の戦いの後、瞬く間の出来事であったようだ。しかして、長時は、居城・林城に戻ることできずに追放、落ちていった。
それは、防御線を構成する山城(林城の支城)の幾つかが「調略」により信玄の側のついたのではないか、と仮設される。


:保科正俊のこと


保科正俊の三代前・易正は、熊倉と関係があった、という説がある。熊倉は、生坂村の隣村である。春日神社の神官をしていた「熊倉」(藤原)家だそうである。また、生坂の大日方氏は、当時「武田」の側にあり、保科氏や真田素と同様に、武田軍の「先方衆」と呼ばれていた。大日向氏は、保科正俊の娘婿の関係、保科正光の妻は真田昌幸の娘という関係・・・
『信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏.井深氏らが小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に大日方氏が仲介をして功績を認められている。』

「調略」---

もし、「調略」があったとしたら、調略した方・保科正俊、された方・井深氏 ・・・大日向氏はそれに噛んでいた・・  なんて」仮設。

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