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雑記;位階官名のこと

2013-02-07 19:52:29 | 歴史
雑記;位階官名のこと

以来気になっている。
保科正則、正俊の官名のことである。
保科正俊は通称を甚四郎といい、官名を弾正忠と呼び、時に筑前守と呼んだ。
1545年に、伊那で武田軍と二つの戦いがあった。最初は高遠頼継と武田の戦いで、次ぎに武田と福沢頼親の福与城の戦いである。最初の武田の高遠攻めの時、保科越前守正俊は武田側に反り高遠は落城し、20日あと、武田は福与城を攻める。この時に府中(松本)から小笠原長時が援軍し、松尾から小笠原信定が伊那衆を引き連れて伊那部城に援軍する。この信定の配下の中伊那衆に保科因幡守があった。
この歴史事実以来、保科の官名が気になっている。

以下に位階官名の説明文を抜粋する。

武家政権が成立すると、源頼朝は御家人の統制のため、御家人が頼朝の許可無く任官することを禁じた。後に武家の叙位任官は官途奉行の取り扱いのもと、幕府から朝廷へ申請する武家執奏の形式を取ることが制度化され、室町幕府もこの方針を踏襲した。

戦国時代になると幕府の権力が衰え、大名が直接朝廷と交渉して官位を得る直奏のケースが増加することになる。朝廷が資金的に窮迫すると、大名達は献金の見返りとして官位を求め、朝廷もその献金の見返りとし、その武家の家格以上の官位を発給することもあった。たとえば左京大夫は大名中でも四職家にしか許されない官であったが、戦国期には地方の小大名ですら任じられるようになり、時には複数の大名が同時期に任じられることもあった。官位は権威づけだけではなく、領国支配の正当性や戦の大義名分としても利用されるようになる。

大名と官位との関わりとの観点から、第三章では、佐竹氏を材料として、当主の官途、官途状、家中における官途を検討し、佐竹氏は家臣に対して官途を自由に名乗らせず制限を加え、家格・階層に応じて上位官途を許すなど、官途による家中統制を行い、それを有効的に機能させたのが官途状であったとした。また第四章では、逆に官途を用いなかった事例として山内上杉氏について論じ、天皇による補任・錦御旗の下賜という外的要因と、鎌倉府時代とは異なる職掌・権限に変化した内的要因により、関東管領職は官途の代替的存在として、官途の替わりに山内上杉氏を体現する機能を持ったことを指摘した。

上記は、鎌倉室町時代の武家官名に関する記述である。特に佐竹藩の例は室町後期(=戦国期)の一般ではないのかと思う。とすれば他藩も「似た様なルール=制度」があったと見るべきだろう。
官名は、勝手な「自称」ではなく、藩主(領主)ごとの官名、と言うことだ。事実、戦国のこの時代に、羽柴秀吉は信長配下で羽柴筑前を名乗っている。

保科家系譜の流れで、官名を見てみると
  保科正知 保科丹後守・・・主は不明、長野若穂保科郷
  保科正則 保科筑前守・・・主は高遠頼継、高遠領(藤沢郷)、別官名弾正忠、通称甚四郎
 *保科正俊 保科筑前守・・・主は高遠頼継、武田信玄、高遠領(藤沢郷)、別官名弾正忠、通称甚四郎
 *保科正直 保科筑前守・・・主は武田信玄、徳川家康、高遠領、多古領、別官名弾正忠、通称甚四郎
  保科正光 保科肥後守・・・主は徳川家康、多古領、高遠領(藤沢郷)
  保科正之 保科肥後守・・・主は徳川家光、高遠領(藤沢郷)、最上領、会津領
  ・・ 
  ・・
  別流か? 保科因幡守・・・主は小笠原信定、中伊那(溝口領?)
  諏訪頼水 諏訪因幡守・・・主は徳川家康、高島藩
  以後諏訪家  諏訪因幡守・・・主は徳川家、高島藩

*保科正俊は高遠家滅亡の後、武田の家臣の内は筑前を名乗らず、弾正ないし弾正忠のみを名乗っている。
*保科正直は武田臣下のときは弾正で、後の家康臣下のの時は筑前守(家康の感状・・ママ越前守となっている。
保科正直、正光が多古城入封して、1590年正光が家督相続し、家康に届け出た後1593年に、位階任官を得ている。従5位下叙勲 肥後守任官である。家督相続から約三年の後のことである。
以上を整理すると、藩主とか将軍が、ある任務を任官する官名であり、藩主の場合は家老職などに、将軍の場合は地方の知行職として任官した官名とするのが、適当であると思う。とするならば、朝廷とか将軍に献金ないし納税の代替えとしての、家格や階層を考慮しながら、官名は与えられたのであろう。朝廷が衰退した時期は、貢ぎ物の代償として位階のみを与え、官名は領主に任せたのだろう。守は従五位下に充当するらしい。官途のルールには、位階と官名の相関表は当然あったと見て良い。
位階官名を整理すると、中世武士の名前から見えてくるものが増えてくる。勘違いやとり違いの率も減ってくる。

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