探 三州街道 歴史

調べています

控え室の雑談記 三州街道・塩の道

2012-09-26 10:04:52 | 歴史
三州街道は信濃と三河の往還道であり、塩の道であり、宗教の通であり、野望と失意の道でもありました。

以下の文は、オリジナリティが、ほぼ有りません。話してみると、知らない人が割と多いのと、各時代の風景像をごっちゃにしていて、気付いていない部分もあったのであえて書いてみます。

塩尻から岡崎までの道のうち、「塩の道」ととらえれば、足助から河口までの矢作川もまた、塩の道であったわけで、この道すがら、なんと塩の名残の多いこと、三河の西尾が「煮塩」を語源としていることも最近知りました。たぶん、雨の多い海岸で天日だと時間が掛かりすぎるから、海水から濃縮する方法で、大鍋で煮る方法が開発されたのだろうと思います。

三州街道の中心は、信濃では飯田、三河では足助でありました。鎌倉時代、室町時代、この時代としてはまれな商業都市の出現です。飯田や足助に城があったから城下町だとする説は誤りで、城と城下町が機能する時代は、織田・豊臣(織豊)時代を待たなければ出現しません。刀狩りと兵農分離によって始めて成り立つ町機能であり、戦国までは、武士も稲を植え、田を耕していた、と見るのが自然です。そうすると、武士(領主)は、各の領地の中心にいたわけで、人口集積を要素とする町はこの時代に無かったと思います。領土争いが頻繁に起こったこの時代は守るのに厄介な橋は、領主に嫌われたわけで、大河川に橋は架かっていなかったと思います。

昔に聞いた話(漫画かも)に、秀吉の幼名の日吉丸時代、蜂須賀小六との出会いが矢作大橋だったと思いますが、そもそも矢作大橋はその時代に無かったはずで、これは明らかな作り話です。また、蜂須賀小六の在所は、木曽川流域にあったはずですが、矢作近辺に、これは用事があって、たまたま来ていたとも考えられるのですが。

塩と言えば、この西尾周辺の昔の殿様は、年末に放映される赤穂浪士の敵役の吉良様です。大学時代にこの近辺出身の友人が多かった所以で、彼らの話をもとに、多少反論をしてみます。吉良の殿様は、駿河今川家とほぼ同等の格式を持つ、足利家庶流(分家筋)といわれています。三河に徳川家(前身の松平家)が台頭すると、敗れて徳川臣下になるわけですが、所領は許されて、この碧海郡の一部に長く居着くわけで、この所領での治世は領民にかなり優しかったといわれています。なかでも殖産に熱心で塩産業に力を入れて、従来の塩より格段と味の良い焼き塩をあみだし、世に広めたといわれています。
時に、常陸から赤穂へ移封された浅野家は、赤穂に産業が無いのを憂い、塩の製法を吉良家に問い、吉良家は、惜しみなく製法を教えたと聞きます。時が経ち塩産業が軌道に乗り、品質も吉良の塩を超えるようになった赤穂藩は、自藩で作った焼き塩を江戸幕府に献上するようになり、品質が評判になり、広大な江戸の市場から吉良の塩を駆逐していきます。当時の吉良家は、米沢上杉家に養子を送り、経済援助もしていたので、財政的にも苦しく、恩を仇で返した礼儀知らずとして、浅野家につらく当たった、というのが真相のようです。
吉良の塩が産業として定着するのは、昔から信濃野国が顧客として存在していたからと言われています。当たり前ですが、当時の沿岸地域は、塩は自家生産で自家消費が原則です。客としては存在するわけがありません。そこに海無し国としての信濃国が、三州街道でつながっており、冬の長い信濃国は、貯蔵食品としての味噌や漬け物を他国より多く消費していたわけで、この味噌も漬け物の塩が無くてはできないわけで。
三河の、岡崎、西尾、刈谷、奥三河出身の友人達はこぞって、吉良さまを悪くは言いません。

塩の道は、昔から、沿岸から内陸へ、数多く存在していたと思われます。だが、三州街道の塩と海産物の物量の多さは、中馬の多さと、塩尻の名の由来を考えると、他を圧していたと考えられます。
鎌倉・室町(戦国後期)に、封建社会では当たり前ですが、信濃国の商業集積は、善光寺の門前町界隈と飯田のみ、特に飯田は中馬従業員の多さと蔵が建ち並ぶ小京都と呼ばれる風景をもった特異な町であったようです。大火災で、小京都の雰囲気はほぼ無くなってしまったが。
中馬とは、賃馬から変化した言葉で、中継地から中継地まで荷物を、一定の料金を払って馬で運ぶ運送形態を指す言葉で、現代のトラック輸送の、トラックを馬に置き換えれば、ほぼ理解できる。その中継地が飯田であり、足助であった。

コメントを投稿