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南朝の道 秋葉街道

2012-11-27 22:54:30 | 歴史
南朝の道 秋葉街道

赤石山脈に平行して南北に走る中央構造線、その中央構造線のほぼ上に秋葉街道が走る。この道は、柳田国男が「我々が言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」(東国古道記)の記述どうり、諏訪大社(茅野)から高遠・藤沢、長谷を経て分杭峠、大鹿村、遠山、青崩峠を越して、静岡県の秋葉神社(秋葉寺)に通じる。秋葉街道の歴史は、縄文時代からとかなり古い。その証は、諏訪・和田峠に産出する「黒曜石」がこのルートに散見されるところからも見える。
鎌倉・室町時代に入ると天竜川を挟んで平行する三州街道の往来が主流となり、三州街道の飯田・八幡宿が起点となる「繋ぎ秋葉街道」ができ、遠山へ通じ、こちらも秋葉街道と呼ばれるようになる。
だが、この街道は、峠難所が数多く、遠州への道であったが、産業交易には不向きで、若干の塩などの運搬あったのみと推測される。

秋葉街道、大河原地区、時は南北朝時代、この地は脚光を浴びる事になる。
南朝側、東日本総司令本部が信濃宮を征東大将軍に設立された。信濃宮は宗良親王のことであり、南朝の後醍醐天皇の第五皇子(第七皇子の説もある)である。以後30年間この地を拠点に、南朝の勢力拡大に活動したという。

宗良親王を整理探求する前に、「ゆきよしさま」伝承を検証したい。

南信濃には、秋葉街道で遠州に通じ、古東山道で岐阜・恵那に通じ、古東山道を分かれて、左に豊橋(昔は吉田と呼ばれた、伊那街道)、右に足助(三州街道)に通じた。このいずれの街道も、峠が難所であり、伊那谷から北三河、北遠江には「ゆきよしさま」を祀る習俗が広く分布していた。「ゆきよしさま」は山路の神であり、旅人の道中安全を護る守護神(=道祖神)であった。・・・柳田国男「東国古道記」

浪合合戦

浪合合戦(1442年)があったのは事実と思われる。
後醍醐天皇の孫の親王が、南朝の勢力拡大で各地を転戦し、勢力衰退で、比較的南朝勢力の残った南信濃と北三河へ向かっていたが、浪合で土豪に襲われて敗北した。この時に親王は死んだとも言われ、あるいは更に逃避したとも言われる。
この親王の名前が、尹良親王と呼ばれ、宗良親王の子という説がある。だが、母親は誰か、で諸説分かれる。
一つは、井伊道政の女(娘)、二つ目は香坂高宗の妹、三つ目は知久敦貞の女(娘)の三説である。別説では、母が香坂高宗の妹で、育ての親が知久敦貞の女(娘)という。この三家とも南朝の有力なサポーターであり、特に香坂家は最有力な宗良親王の忠臣であった。
この時代、地方豪族は、中央政府高官、特に天皇家との血縁を強く望み、この高官が地方豪族家に長期滞在をする場合、豪族の親族の娘などを夜伽に供するのは常であったようである。従って上記の三例とも宗良親王の奥さんの父親、外戚の可能性はある。
異説では、足利直義の子の之義(ゆきよし)が浪合合戦で戦死した(1396年)とあり、「ゆきよしさま」は足利之義であるという信仰に繋がったとある。・・・知久氏伝記(信濃勤王史)
室町幕府の足利尊氏が北朝方だからといって、一族そろって北朝側ではなく、南朝支持の足利一族も多くいたみたいだ。足利直義並びに子の足利之義も南朝側である。
この地にもともとあった「ゆきよしさま」信仰は、南朝の拠点であった南信濃の浪合で、南朝の宮様の敗北を持って伝説伝承化していった。

諏訪神党の知久家は諏訪神族である。浪合合戦に敗れて自害することになった尹良親王は、育ての母親の家の知久氏に「車の紋の御旗錦の母衣」を贈り、以後知久氏は、諏訪一族の証の梶紋から御所車紋にかえたという。
「浪合記」は信憑性が薄いと言われています。事実時代考証などかなり無理があり、合理性に欠ける。これは、浪合合戦に関係した南朝側の生き残りが言い伝えや伝聞をもとに、かなり後年に書き残した戦記ゆえ、と思われる。そこには誇張や記憶違い、聞き違い、言い違い、不都合なことの省略などなどがある。でも、すべてを偽書と片づけないで真実も見たいと思う。とくに書いた新田一族のこと、人名や構成など精度が高そうで、他家のこと、関わらない戦記など、少し雑な気がする。真偽は不明だが、南朝の宮を奉じて奥三河に流れてきた新田一族が徳川家康の祖に繋がったという説もある。

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