限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・75】『γηρασκω δ’ αiεi πολλα διδασκoμενοs(老而學)』

2013-03-31 16:54:50 | 日記
中村正直(なかむら まさなお)と言えば、漢学と共に蘭学も修めた啓蒙家である。慶応二年に幕府からイギリスに派遣された中村正直は、朝になると宿泊のホテルで漢文を朗々と吟じていた。中村の部屋の真下(あるいは真上?)に泊まっていた林董三郎はそれを聞いていて懐かしくなり本を貸してくれ、と申し込んだ。しかし、中村は本はない、と断った。『そんなはずはない、毎朝朗読しているではないか!』と追及すると、『あれは、子供の頃に暗記しているのを思い出して暗誦しているだけだ』と答えた、というエピソードが囁かれているほど、中村は抜群の記憶力を誇っていた。

中村は、当時若いながらもすでに昌平黌の教授であった。昌平黌は別名、昌平坂学問所といい、湯島(御茶ノ水)に今なおその遺構が残っている。寛政2年(1790年)に江戸幕府が建てた官学の学問所で朱子学を教えていたと言われる。

ちなみに、世間ではよく『江戸時代には儒教、とりわけ朱子学が広まった。その結果、忠孝が日本人の精神のバックボーンとなった。』と考えている人が多い。しかし、それは本物の儒教というものを知らないからだと私には思える。私は『日本の儒教は儒教フレーバーであって、儒教そのものではない。』 と考えている。これについては、いづれまとまった論を書く予定なので、今は次の2点を指摘するだけに留めておきたい。
 1.日本の祭りには、儒教に関連するものが無い。(公的で、全国的な祭り)
 祭りがない、というのは儒教が民衆に全く浸透していなかった何よりの証拠だ。日本の祭りには、神道、仏教、および年中行事として中国に由来するものがあるだけで、儒教そのものの祭りは皆目見当たらない。
 2.江戸時代の天皇家内の同族結婚あるも儒者からの反対なし。 
 例:閑院宮典仁親王と成子内親王、光格天皇と欣子内親王。  
 ついでに言うと、大正時代の、昭和天皇と香淳皇后も同族結婚である。同族結婚、つまり父系を共有する者同士の結婚は、朱子学のみならず儒教一般においては固く禁じられている。日本人は、元来、姓というものの意味が理解できていなかったため、同族意識が本場の中国や李氏朝鮮と全く異なっている。(中国や李氏朝鮮から言えば、『言語道断、なっていない!』レベルということだ。)

閑話休題

中村正直は昌平黌では、儒官の佐藤一斎に師事した。佐藤一斎は昌平黌では朱子学の大儒でありながら、個人的にはひそかに陽明学を信奉していたため、「陽朱陰王」と呼ばれた。

現在の我々が佐藤一斎の名を耳にするのは、彼の警句(アフォリズム)集の『言志四録』のおかげであろう。とりわけ、晩年に書かれた『言志晩録』の次の句は人口に膾炙する。
 少而學、則壯而有爲  少にして学べば、則ち壮にして為すあり
 壯而學、則老而不衰  壮にして学べば、則ち老いて衰えず
 老而學、則死而不朽  老にして学べば、則ち死して朽ちず




漢文が大好きな人にとっては痺れるような名句に聞こえるかもしれないが、残念ながら、これは日本だけの専売特許ではない。ちょっと西洋に目を向けると、ギリシャの七賢人の筆頭のソロン(Solon)も『老而学』について、佐藤一斎と同じ所感を抱いていたようだ。(Plutarch, Solon, 31)

 吾は老いてなお多くを学ぶ。
 【英訳】I grow old always learning many things.
 【独訳】Vielerlei noch lernend altere ich.

勉強する、というのは大学入試のための受験勉強や、資格獲得のためのようにいやいやながらにするものではなく、自己の内面的成長のためであるべき、ということだろう。

私には、佐藤一斎やSolonの言葉は「お前もまだまだしっかりと『知の探訪』をせよ」と温かく叱咤してくれているように感じる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする