限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第132回目)『不必要な愛国心、必要なのは。。。(その2)』

2013-03-17 18:15:44 | 日記
前回

【日本の平和ボケは千年の伝統】

日本人が近代的な意味で国を国家という概念に気づかされた転換点が 1853年のペリー提督の来日であったとすると、西洋のおける近代国家の概念確立はドイツ三十年戦争のあと、1648年に締結されたヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約とも)であった。この時から、国民国家(Nation-State)、つまり同じ文化を共有する民族(Nation)が主権国家(State)としてまとまるべきである、という概念が広まった。明治期になって、国民国家の概念のもと徳川幕府から明治政府という近代国家が誕生し、同時に、国民皆兵の制度が施行され国民が国の為に命を懸けて戦うことが求められた。

しかし、日本において国の為に命を懸けるという概念は極めて目新しい概念である。

奈良時代から平安時代にかけて、アイヌ(蝦夷)が時の政府に何度も反乱を起こしたが、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じて、討伐した。『大日本史』(巻241)によると、討伐軍と雖も、蝦夷に大敗を喫することも多かったという。しかし、最後には、津軽や北海道のアイヌも率いて投降したので、爵位を授けたという記述が見える。つまり、民族の独立を守るために命がけで戦うという気迫は日本においては希薄であった。そして攻める側にしても、相手が服従を誓い、貢租を治めればそれ以上の文化的弾圧は必要と考えなかった。
 尋、渡島夷酋百三人、率種類三千人及津輕俘囚不連賊者百餘人、詣秋田城納款。明年春、使藤原統行、文室有房等饗俘囚以撫勞之。敕:「出羽俘囚深江三門、大辟法作正月麻呂等,並授外從五位下。」

日本の歴史を概観してみれば、奈良や平安の一時期を除いては、千年にもわたって命がけの戦争は国民が直接携わるものではなかった。兵士はその後、武士という階級を形成し、戦闘要員という職業を世襲化することとなった。つまり、日本人は戦いを武士という専門職に任せ、庶民は暴政や一揆などの止むを得ざる時以外は敢えて戦に参加しなかった。

つまり、前回のアンケートで見たように、日本人が国のための戦争に参加しないという姿勢や、世界中から揶揄される『日本人の平和ボケ』は、昨日今日にできた思潮ではなく、千年以上にもわたる日本の確固とした『伝統』であるのだ。この伝統が培われたのは、日本が地政学的に異民族の侵入を一度も経験したことが無かったことによる。(確かに、二度の元寇や、対馬が朝鮮から度重なる侵攻を受けたり、琉球が薩摩藩から過酷な支配をうけたことはあったが、日本という国家規模への影響はなかったも同然だった。)

【戦争は武士というプロ集団間の争い】

異民族からの侵入と暴虐がなかったことに加え、日本国内の戦争のありかたそのものも庶民から戦争という実態を遠ざけていた。以前のブログ、想溢筆翔:(第2回目)『義か自由か、それが問題じゃ』にも書いたように、日本以外の国々では戦争ともなれば庶民も兵士として強制徴兵されるか、あるいは住んでいる町ごと略奪の対象となるので、否応なく戦争というものに対して常に準備を怠らないようにしなければ生きていけなかった。



例えば、1202年から1204年にかけて行われた第4回十字軍では、十字軍の本来の目的とは全く無関係に、かつ全く罪もないビザンチン帝国の首都・コンスタンティノープルが同じキリスト教徒によって略奪された。それはひとえに、同市が富の宝庫であったため、西欧の貪欲なキリスト教徒に狙われたに過ぎない。同様の例は、西洋や中国の歴史に枚挙に暇がないが、これから分かるように、彼らにとっての戦争とは、『理屈はどうであれ、戦争に勝てば相手の財産をそっくり略奪でき、捕まえた人は奴隷としてこきつかったり、売り飛ばすことができる絶対権力をもつ』ことを意味していた。

こういった歴史的背景から、彼らはまず、民族対立、宗教対立を身近なものとして体験することで自分の住む町(コミュニティ)の防衛を強固で高い城壁を築くことで物理的に強化し、また他の軍閥や諸外国との軍事的な同盟関係を強化していった。

一方、日本の戦争と言うのは、あえて矮小化した言い方をすれば、『土地の徴税権を巡る武士集団同士の内輪もめ』でしかなかった。地頭や大名が領土を支配していると言っても、それは土地の所有権を争っているというのではない。土地はあくまでも庶民が所有者であり、領主は徴税権があると称して、収穫物の一部を取り上げているに過ぎない。従って、戦争の勝ち負けで領主が変わったとしてもそれは納税先が変更されたに過ぎない。喩えて言えば、税の振り込み口座がA銀行からB銀行に変わったようなものだ。あるいは、誤解を恐れずに言えば、ヤクザがみかじめ料を徴収できる縄張りを争っているのと本質において変わらないのが日本における戦争の実態だ。

ただ、日本の武士は、西洋や中国・朝鮮の将兵に比べると極めて紳士的であった。日本の武士の大多数は、もともと社会的にいうと中下層階級の郷士であるため、土地や財産の重みを知っている人たちであった。それ故、自分の土地や財産を守ると同時に他人の土地・財産を無暗に犯さなかった。日本の歴史において、町が丸ごと略奪されたり、土地が強奪されたり、捕らわれた庶民が奴隷として売り払われたり、土地の住民が強制的に追い出されたりした例がほとんどなかったことからも明らかである。

【コミュニティの自由】

逆にいうと、いくら激しい戦争があっても、散発的な略奪や延焼による被害はあったとはいえ、コミュニティ自体が攻撃の対象にならなかったため、外敵に対してコミュニティを防衛する、というコンセンサスが醸成されなかった。西洋では『コミュニティ防衛』は単に生命・財産を守るという現実的な利益とともに、『自由を守る』という何ものにも代えがたい理念があった。

日本は、歴史的に見て、過酷な異民族支配を受けることがなかったという幸運な過去のため、結果的に愛国心のコア概念である『コミュニティの自由を守る』という理念が育くまれることがなかった。それ故、『愛国心を持て』というのが一体何を意味するのか、未だに理解されず、口先だけの理念なきスローガンに過ぎないと私は考える。

続く。。。
コメント
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