限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第59回目)『霊帝の強欲な珍貨の収集』

2010-11-20 18:58:38 | 日記
以前『ギリシャ・ローマと古代中国の比較』と題して、古代のギリシャ・ローマと中国に類似の習慣があることを紹介した。そして『私は、このような東西の文化の比較に尽きせぬ興趣を感じる。』と述べた。

資治通鑑は、実直な司馬光の編纂主任の下、その正確な記事と簡潔な文体で知られている。現在の基準から見ても非常に科学的な歴史書である、とは京大の中国史の大御所である桑原隲蔵が常々述べていたところである。それで、たいていのページは事実が淡々と記述されているのだが、たまに新聞でいう、三面記事が紛れ込んでいる。まじめな記事の合間に唐突に出てくるので、私ははじめは戸惑ったがこのようなはめ込み記事が当時の生活の実態を彷彿とさせてくれ、また歴史上の人物をぐっと身近にしてくれる。

今回紹介するのは、後漢末の霊帝で、宮中に模擬店を作ってバザールをしたという話だ。
(記憶が定かではないが、たしかローマの皇帝ネロも同じような趣向のバザールを催したとスエトニウスの『ローマ皇帝伝』(岩波文庫)にあったように思う。)

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資治通鑑(中華書局):巻58・漢紀50(P.1860)

この年(AD181年)霊帝が宮廷内に模擬店をこしらえた。宮女に売り子の服を着せ、街中の与太者の喧嘩もわざと演出させた。帝自身も商人の真似をして、宴会を催した。ふざけて犬に冠をかぶせ、帯をしめさせた。そして貧民が使う四頭立てのロバに乗り、帝自らが御者となって宮廷の園内を疾駆した。都の人たちはこの噂を聞きつけ、町中でも真似をしたので、ロバの値段が高くなり、馬と同じ位になった。

是歳,帝作列肆於後宮,使諸采女販賣,更相盜竊爭鬥;帝著商賈服,從之飲宴爲樂。又於西園弄狗,著進賢冠,帶綬。又駕四驢,帝躬自操轡,驅馳周旋;京師轉相倣傚,驢價遂與馬齊。

この歳,帝、列肆を後宮に作り,諸采女をして販売し,さらに相い盗窃、争鬥せしむ;帝、商賈の服をつけ,これに従いて飲宴し、楽しみをなす。また、西園において狗を弄し,『進賢冠』をつけ,帯綬す。また四驢を駕するに,帝、身みずから轡を操り,駆馳し、周旋す;京師、転相し、倣傚す。驢の価、遂いに馬と斉し。
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霊帝は宮中の模擬店遊びだけでなく、中国全土からあらゆる種類の珍貨を集めさせた。それが呼び水となってさらに多くの珍貨が競って集まるだろうというので、『導行費』と名づけた。中国の富は日本とは桁違いで、西域や東南アジアなど幅広い交易相手から珍貨が続々と集まってきたであろうことは想像に難くない。



私は、中国の歴史を読んでいて感心するのは、こういった悪行に対して、諫言(いさめる)する人が常にいることだ。当然のことながら諫言は帝には喜ばれないはずであり、下手をすると当人だけでなく、一族全員に累害が及ぶことも多い。

霊帝の珍貨の度を逸した収集に人々が大いに困っている、と中常侍の呂強が書面を提出した。

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資治通鑑(中華書局):巻58・漢紀50(P.1861)

中常侍・呂強が上疏した「天下の財というのは陰陽から発生するもので、全ては陛下のものです。従って、努めて私物のために集める必要もないのです。ところが、収集の混乱に乗じて、中尚方や中御府があらゆる所から宝を掠め取っています。西園の役人は倉庫から、中廏の役人は厩舎の名馬をネコババしています。そしてせっかく集められた財宝は、また『導行之財』という名目で勝手に処分され、人民はいくら財宝を提出しても、悪徳役人だけが得して、宮廷には、何ひとつとして集まっていません。。。

中常侍呂強上疏諌曰:「天下之財,莫不生之陰陽,歸之陛下,豈有公私!而今中尚方斂諸郡之寳,中御府積天下之繪,西園引司農之藏,中廏聚太僕之馬;而所輸之府,輒有導行之財,調廣民困,費多獻少,奸吏因其利,百姓受其敝。。。

中常侍・呂強、上疏し、諌めて曰く:「天下の財,陰陽に生まれざるなし。これを陛下に帰すに、豈に、公私あらんや!しかるに今、中尚方、諸郡の宝を斂し,中御府、天下の絵を積み,西園、司農の蔵を引き,中廏、太僕の馬をあつむ;而して、輸する所の府,すなわち導行の財あり。広く調し、民、困しみ,費、多くして献、少なし。奸吏、その利により,百姓、その敝をうく。。。
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この上訴文には、続いて、役人が、賄賂をおくって、失政を糊塗することが横行していると糾弾し、下っ端の役人だけでなく大臣クラスも厳正の処罰せよと迫っている。毎度のことであるがこの呂強の文も帝の耳に届く前にどこかで握りつぶされていた。しかし、中国の歴史の凄いのは、多少のフィクションは混じっているにしろ、こういった上訴文自体が事実として残されている、ということだ。これが歴史から教訓を学ぶという趣旨であると、中国の史官は考えていたのだ、と私には思える。

ここで、言って置きたい事がある。三国志でもよく出てくるように、中常侍と言えば宦官で、後漢の滅亡の原因を作った悪人の権化のように言われているが、この呂強のように気骨のある中常侍もいたということを認識しておくべきであろう。

さて、霊帝の道楽はこれだけに止まらなかったようだ。翌年にはなんと高さ100メーターの塔を建立している。(阿亭道に四百尺の観を起こす、起四百尺觀於阿亭道)

しかし、霊帝の贅沢な遊びもこのあと数年を待たずして、黄巾の乱が勃発したので後漢の最後の残照を弱弱しく放ったにすぎなかった。
コメント
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