限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2010年授業】『ベンチャー魂の系譜(5)-- Part1』

2010-11-05 16:51:15 | 日記
【ベンチャー魂の系譜 4.死と隣り合わせの求道(法顕、玄奘、空海、河口慧海)】

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト 
 かなかな(法・1)
 ゆうゆう(農・1)
 ぶんちん(経・2)
 A:聴衆

【求道者たちのベンチャー魂】

現在日本における宗教の役割は、どう贔屓目にみても低い。仏教にしても天理教や創価学
会のように活発に活動しているといっても、純宗教的というより、政治的・体制維持的な
活動のように私には見える。また、20年前のオーム真理教のように、宗教を隠れ蓑にした
独善的なオカルト集団もいたるところに存在している。

宗教者の中には真摯に現状を憂いて行動している人も確かにいることは私も理解している。
しかし、私には各宗派が主張する教義にはどうもなじめないでいる。それは、先ず神とか
あの世に関する彼らの概念が私にはおとぎ話にしか聞こえない。彼らの説明が、論理的で
ない上に、説明に困ると必ず過去の伝統や権威を持ち出し、こちらを押さえ込みにかかろ
うとするからである。

しかし、私がこのような意見を持っているからといって、求道者たちの行為まで否定する
ものでない。今回取り上げた、求道者たちは命の危険も顧みず法を求めた。彼らをつき動
かしたベンチャー魂を探ってみよう。

今回のテーマは、以下の人達が対象となる:
法顕
玄奘
空海
円仁
天正遣欧使節
河口慧海
フランシスコザビエル(Francisco Xavier)
アルベルト・シュバイツァー(Albert Schweitzer)

【お薦めの図書の紹介】

●上田紀行「ダライ・ラマとの対話」(講談社文庫)

(SA):ダライ・ラマはどのようにして、選ばれるか?
かなかな:小さいときからの習慣などから、いろんな偉い方が、判断する。
(SA):チベット仏教では、ダライ・ラマが死んだら、魂が別の人に移ると信じられている。
現在のダライ・ラマ14世も、二歳くらいのときに見つけられた。そして、それから訓練を
受ける。この上田さんの本では、ダライ・ラマの肉声が聞こえるような書き方になっている。

上田さんの話し方は非常に上手。言っていることが途切れないのは、頭の中で整理されてい
る証拠。この授業の目的の一つは、話し方の上達にある。頭の中を整理して、聞き手がわか
りやすいような言い方ができるように。

●「新訳仏教聖典」(大法輪閣版)

(SA):仏教にキリスト教の聖書にあたるような、聖典はあるか?
かなかな:経典がある。
(SA):どれくらいあるのか?キリスト教の聖書は1500ページぐらい。
かなかな:玄奘がインドからもらってきた経典が657部ある。
(SA):一部で何ページほどあるか?
かなかな:わからない。
(SA):例えば、コーランはどれくらいあるか?
A:600ページ。
A:少なめではないか。
(SA):どれくらい少なめか?
A:テレビで、コーランが燃やされるのを見たことがあるので、数十ページではないか。
(SA):岩波文庫で3冊分。仏典は、電話帳百冊分。ブッタがそれをすべて言い残した
のではなく、ブッタの弟子が聞いたことをまとめた。当時は、覚えることが教育であっ
た。問題は、百冊分を普通の人は読めるのかどうか?そこで、大正時代から昭和初期
に書かれた、この「新約仏教聖典」を薦める。ブッタが生まれてから死ぬまで、順を追
って書いてあり、この本が一番わかりやすい。抄訳本や解説版は、読んでもダメ。瞬間的
な理解だけで、頭には残らない。しかしこのような本を、時間をかけて読むと、一生頭に
残る。



●玄奘「大唐西域記」(平凡社・中国古典文学大系)

(SA):玄奘が長安からインドへ行って帰ってきた。そのときに唐の太宗が旅行記を書けと
命じて書かされた。もともと、玄奘は、仏典を訳すだけで、旅行記を書くつもりはなかった。
漢文が読みにくいと言われているが、当時の西域の状況を知るのにはいい。

●法顕「法顕伝・宗雲紀行」(平凡社・東洋文庫)

(SA):法顕とはどのような人か?
ぶんちん:数人でインドやスリランカへ行って、ひとりで帰ってきた。
(SA):15年くらいかけて、数人で言って、一人で帰ってきた。中国からインドに人の行
き来があった。

●円仁「入唐求法巡礼行記」(中公文庫)
●エドウィン・ライシャワー「円仁 唐代中国への旅―『入唐求法巡礼行記』の研究」(講
談社学術文庫)

(SA):ライシャワーが、円仁の旅行記を英訳した。ライシャワーとは、誰か?
A:(知らない)
(SA):30年ほど前は、非常に有名な人であった。1961年から1966年までのアメリカの駐日大使。
日本語が完全に読み書きできる。漢文で書かれた円仁の本を、英訳した。このふたつの本を
読み比べるのが良い。

●河口慧海「チベット旅行記」全5冊(講談社学術文庫)

(SA):河口慧海とは、どのような人か?
かなかな:日本からチベットに向けて、仏教の経典の原書を取りに行った。理由は、日
本の経典の訳に異同や誤訳が多いと感じたから。
(SA):チベット旅行に1900年ごろから数年間行っている。この人のすごいところは、ヒマ
ラヤの標高6500メーターを1人で超えて行く。また、現地でチベット語を完全にマスターし
ている。イエス・キリストは、死人を蘇らせていたり、湖の上を歩いたと言われているが、
河口慧海も死人を蘇らせたと言われている。また、100年前のチベット人の暮らしがわ
かる。当時、トイレでは紙を使ったか?
ゆうゆう:たぶん使ってないと思う。
(SA):ではどうしたか?
ゆうゆう:木で、ふいたのではないか。
(SA):木も紙も使わない。ぜひ、チベット旅行記を読んでみるといい。たかが100年前のこと
なのに、原始的な人間の生活が分かる。日本も数千年前はこうだったのかも。
(SA):チベットは中国に弾圧されていて、可哀そうなイメージがあり、善人ばかりなイメ
ージがあるが、チベットの中にも、陰険な人が多いと河口は言う。特に僧侶の中に陰険な人が
多いというのが、この本を読むとわかる。とにかくおもしろい本。
人間の生の姿がわかる。河口はヒマラヤ山頂のマイナス30度でも、凍死しない。こういう人
を見ると、つくづく神によって生かされている人がいると感じる。

【日本と朝鮮との関わり合いについて】

●「遣唐使の見た中国と日本」(朝日新聞社)
●井上秀雄「古代日本人の外国観」(学生社)

(SA):例えば、日本は中国から、文物を手に入れたが、どのような手段で手に入れたか?
かなかな:遣唐使が行って、持ち帰ってきた。
(SA):遣唐使は、何回行ったのか。そういう質的なもの次は、量的なもの。
A:200回。
A:30回。
(SA):19回派遣を決めたが、実際は15回しか行っていない。また日本は唐だけではなく、朝
鮮半島にも派遣している。新羅や渤海は、何回くらい行っているか?
かなかな:30回くらい。
ゆうゆう:200回くらい。
ぶんちん:30回くらい。
(SA):実は両方とも170回を超えていると、「遣唐使の見た中国と日本」(P.10)に書かれ
ている。(しかし、Wikipediaの『遣渤海使』『遣新羅使』にはそれぞれ、14回、28回と書
かれている。)
我々は、遣唐使は知っているが、遣新羅や遣渤海はあまり知らない。そして中国の文物は
すべて遣唐使を通じて入手したように誤解している。同じ誤解が江戸時代の鎖国であり、
江戸時代も、琉球や対馬などを通じ、非常に開かれた世界があった。
(SA):今の朝鮮人の名前は、たいていは一文字。それはどこから来ているか?
A:もとは中国。
(SA):もともと中国人の名前を持っていたのか?
A:別の自然発生的な名前を持っていた。
(SA):紀元前後では、朝鮮の人々の名前は日本と同様長い名前だったが、時代とともに変わ
った。しかし日本は、中国の影響は受けたが名前は変更していない。この意味で、朝鮮は、
日本の合わせ鏡。朝鮮の政治・文化の変遷を考察することで初めて日本人のやり方がわかる。
「古代日本人の外国観」によると、朝鮮半島では、新羅あたりの時代で、一文字の名前の人
が現れている。


●フランシスコ・ザビエル「聖フランシスコ・ザビエル 書翰抄」(岩波文庫)

(SA):ザビエルはどのような人と理解しているか?
A:キリスト教の普及に熱心だった人。
(SA):それは、日本人にとってプラスだったのか?
A:共感できない部分もある。キリスト教を布教した人は、キリスト教が絶対だという考
えがあるため。
(SA):私の見方もそうだ。キリスト教から見て、邪教の偶像を壊す。彼は、キリスト教以外
は滅びるべきだと確信していた。彼が日本に来た当時は、僧侶は腐敗していた。質素な暮ら
しをしていたザビエルが受け入れられたが、彼の心情の奥底まで掘り下げて観察して見ると
このような、非常に偏狭な考えをもった人だと分かる。人の評価は、非常に難しい。


続く。。。
コメント
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