まず、ちょっと調べれば出て来る一般的解釈を。
自由の概念:近代における自由の概念は、「他者の意志にではなく自己自身の意志に従って行為する事」として捉えられる。この自由概念が封建的な身分制からの解放という思想を導き、ヨーロッパにおける市民革命を育んだ。社会契約説では、政府による統治がその正統性を獲得するのは、社会契約に対する被統治者の同意によるとされた上、社会契約を破った政府に対しては、これを覆す権利(革命権)があると説かれている。
自由はまた他者の自由とも衝突する。 他者の自由を尊重せず勝手な振る舞いをしてはならない、という考え方は、J.S.ミル『自由論』の中で表明され、今日他者危害の原則として広く支持されている自由観である。
イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』において自然の因果系列とは独立にあらたな系列を始める絶対的開始の能力として超越論的自由を論じた。この超越論的自由は理論理性においては単に消極的に想定可能であるだけであったが、『実践理性批判』においては道徳法則に自ら従う実践的自由を積極的に論じた。
エーリッヒ・フロムは、ナチズム・日本軍国主義が台頭していた1941年に出版した『自由からの逃走』の中で、民主主義社会において自我を持てぬ(消極的自由はあっても積極的自由を実現できない)人間は孤独と無力感にさいなまれ、他者との関係、指導者との関係を求めて全体主義を信奉することになると記した。アイザイア・バーリンは、「二つの自由概念」において、フロムが消極的自由の対照概念として挙げた積極的自由の概念も、他者との連帯を求めるが故に究極的には全体主義へ繋がるとしている。
またデュルケームでは、ギリシア語のanomos(法がないこと)に由来するアノミーが提唱されており、制限のない自由が個人をかえって不安定に陥れることが指摘されている。
「フリーダム」と「リバティ」:「freedom」と「liberty」は、ともに自由と訳される。現在、この二つの語はほぼ同じ意味で用いられるが、その意味合いは微妙に異なっている。フリーは古英語のfr?oに由来し、束縛や拘束がなく義務を免除された状態、すなわち自由の消極的側面 (しなくてよい)が強調される。一方リバティはラテン語のlibertasが語源であり、選択や行動・発言の権利が保障された状態、つまり積極的側面(してよろしい)に比重が置かれる。
両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。freedomおよびlibertyの用法にも残っているが、近世までは特権を意味する語であった。民衆の持ちえない権利を有している状態がfreedom/libertyであった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる高貴なる者の特権と定義され、但し書きで「一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている」と言及されている。
訳語の由来:福沢諭吉はリバティを訳すに当たって、仏教用語から「自由」を選んだ。初めは「御免」と訳す予定であったが、上意の意味が濃すぎるとして改めたようです。
いやはや、読むだけで肩が凝って自由が束縛されそーな感じだよね
さて、では諸君の「自由」についての投稿を待ってます。
私の私見は、その後で