★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

【速報】我が国に安倍××が混入

2015-01-16 20:51:03 | 文学
日本人が全員廃棄処分になってしまうのは反対である。気をつけて食べれば大丈夫だ。だいたい、混入している御仁はその時点で死んでいるのではなかろうか。問題は生きているゴキブリである。ウィキペディアによると、人類が滅びてもゴキブリは生き残るというのは、警醒をならしたい学者の大げさな言葉だったそうだ。むしろ、家に寄生している種は我々が滅びると一緒に滅びるそうである。というわけで、全員廃棄が正しいのかもしれない。

……という訳で風刺というのは、抑圧への抵抗である限り、意味的に限定的になってしまうものである。言うまでもなく、文学史上の通念として、風刺とリアリズムはそもそも関係があり、風刺がわからないやつはリアルな眼を持っていないやつと言われても仕方がない。確かに、最近のある種の学生をみていても、皮肉がほとんど通じなくなっている。下手をすれば、ドストエフスキーをテロ礼賛とか言うやつが出てきそうである。実際にいるけど……。おもしろい皮肉は意見ではなくよい描写であるから、言説がコミュニケーションであるべきというスターリンみたいな考え方に抵抗してしまう。小説も詩もそんな側面がなければ、いわゆる「深さ」を失うのだが、それを単純な意見としてとりたがる人間は後を絶たない。しかし、これもしかたない現実には違いない。表現理解、特に皮肉の理解というのは、相互に文脈を理解してる人間同士でないと成立しにくいことは確かであろう。だから、それぞれ笑いのセンスの垣根を乗り越えて理解することが必要なのだが、それが読みの訓練というやつである。しかし、それはみんなができることではない。

3D女性器とか、芸人や歌手の政治家風刺を取り締まろうという人間はいつもおり、彼らは馬鹿というよりも、作品の読み方というものを知らないのである。それこそ難しい問題だが、教育できるとすれば問題なし。

むろん、作品にどれだけ読む余地があるのかという問題は常に残る。また、たとえばポンチ絵にどれだけまともな認識があったのか、ドーミエの風刺はポンチ絵か、とか諸々の問題はいつもアクチュアルなのであろう。すでに述べたように、風刺は意味を限定するからイデオロギーや偏見にからんでいつもやっかいなのである。批評家が皆知っているように、風刺は抵抗のつもりでもだいたいにおいてかなり暴力的なものだ。相手のセンスを決めつけた上にそれを逆なでするのが風刺である。そして、案外、ユーモアのつもりで吐かれた風刺は、たいがいおもしろくも何ともないのである。しかし、それに比べて、ソ連のジョークが卓抜なものが多いことを以て、抑圧が強烈であることを肯定するわけにはいかない。あのジョークを作っていた人民がお互い密告し合っていたことは確実だからだ。要するに、皮肉に対する批評眼は、相手の反人民性を測ることと表裏一体であったはずなのである。だから洗練もするわけだ。

だから表現の質を問題にして表現を批評しようということが、規制しようとすることになってしまう時にこそ、ファシズムが生じるかもしれない。しかのみならず、議論自体を停止させる大上段の議論――例えば、今回のパリの襲撃事件について話しているうちに、「表現の自由」と「公共性」の矛盾やらの議論に飛ぶタイプの人間が明らかにあまり良くない種を撒いている。議論というのは、表現をめぐって永遠に自由になされるべきであり、そこで人々を沈黙させる二律背反を持ち出すのは陰謀である。「表現の自由」などというのは、レジスタンスもファシストも言う。どのようなやつが自由を主張しているかをみなければ……

どんど焼き

2015-01-13 02:31:35 | 文学


どんど焼きで、木の枝に色の付いたお餅を刺して、それを子どもたちが火にかざすのは、とても美しいと思う。

どんど焼きは、『徒然草』などに出てくる左義長がもとだとか言われているのであるが、よく分からない。太宰治の「人間失格」で、葉藏が「空腹感から、ものを食べた記憶は、ほとんどありません」と言う重要な箇所があるが、わたくしも、小学校の中学年まであたりまで空腹感とか食欲とかがなかった記憶がある。わたくしがものを食べるように母親は多大な工夫をすることになった。それにしても、太宰の主人公は、空腹感はないけれども人間の習慣に合わせて食う努力をしたそうである。これは異常事態である。わたくしが気になるのは、葉藏の色彩感覚である。「甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、などと言って騒ぎますので、自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、おなかが空いた、と呟いて、甘納豆を十粒ばかり口にほうり込む」という箇所はもちろん、「海の、波打際、といってもいいくらいに海にちかい岸辺に、真黒い樹肌の山桜の、かなり大きいのが二十本以上も立ちならび、新学年がはじまると、山桜は、褐色のねばっこいような嫩葉と共に、青い海を背景にして、その絢爛たる花をひらき、やがて、花吹雪の時には、花びらがおびただしく海に散り込み、海面を鏤めて漂い、波に乗せられ再び波打際に打ちかえされる、その桜の砂浜が、そのまま校庭として使用せられている東北の或る中学校に、自分は受験勉強もろくにしなかったのに、どうやら無事に入学できました。そうして、その中学の制帽の徽章にも、制服のボタンにも、桜の花が図案化せられて咲いていました。」といった箇所にも、色彩の抑圧が感じられる。