★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

来たるべき「国民」

2018-06-14 23:14:42 | 思想


この前亡くなった日高六郎の『1960年5月19日』を読むと、そこにある「国民」という言葉が、ポッブス的自然状態から苦労して獲得された共同性の意識のことを指していて、そんなものを獲得しそこなった日本人が、はじめて「国民」らしき意識をもったのが、その5月19日だったというのだ。最近のリベラル?陣営は、その「国民」を、あまりに所与のものとして扱いすぎている。わたくしは、60年安保が「国民」誕生の時だったとは必ずしも考えないが、われわれはもともと「国民」でもなんでもないということ、――割とカタい日高六郎みたいな人が持っていたかかる認識すら忘れがちであることは重要である。憲法だって同じ事で、平和主義はもちろん、いろんな権利などがわれわれにとって「与えられているもの」でないことは明らかである。われわれは本当は「人間」ですらない。

それにしても、文化左翼などが「国民」という観念を国家主義的なものとして批判するのとは違った意味で、わたくしは「国民」という言い方にはなんとなく居心地の悪さを感じる。昔、「市民」というのはどうなんだろうなあ……と悩んでいたマルキスト達の違和感と似たようなものだと思うが。だからといって、木曽人とか労働者というのもあれだし――、とそんな空気の中で、ある人たちにとっては「日本人」でええやんか、となったのであろう。いずれにせよ、それを所与の実体みたいに考えたい人は必ず暴力的に間違う。ハイデガーもどきではないが、本人は悩んだ末の決断で自己同一性にジャンプしたつもりであろうけれども、本当は別に大して悩んでもいないのが現実である。大江健三郎の「セブンティーン」の17歳なんか、むしろ悩む能力の欠如が問題だったとしか言いようがない。

日高氏が最後に掲げていたのは、焼け跡で苦労したおばちゃんが民主主義的な抵抗運動に目覚めるエピソードだった。考えてみると、こういうエピソードに頼っているから問題ではあったのである。わたくしは、もっとこのエピソードを長々と展開すべきであったと思った。ちょっとあっさりとしすぎているのである。あるいは、あっさりとしか書けないのかもしれない。
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