★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

西城秀樹の思い出

2018-05-18 19:48:05 | ニュース


西城秀樹の思い出は……



ない。というか、つい最近まで野口五郎と混同していた。ちなみに、最近、田原俊彦と近藤真彦が別人であることも知ったし、もちろん、SMAP、トキオも患者にエイトなど、誰一人個体判別ができない。

これはわたくしだけの問題であろうか。まったくそうは思わない。政治家に対してなんか、ほとんど同じような顔に見えている人がほとんどであって、ネット上での罵りあいなんか、一人一人をきちんと判別する感覚が働き過ぎる人は参加していない。だいたいにおいて、俺一人で世界を救うみたいなモチベーションの輩ばかりであって、その実、陳腐なほどその意見が紋切り型なのである。なぜかと言えば、ほんとは俺一人ではなく、誰かの意見の劣化コピーをしゃべっているだけだからで、俺一人が少なくともほんとは二人であることをあんまり自覚できないほどの感覚だからやってられるのである。まあしかし、一般に、そういう人でなくとも、自分が一人であるか二人であるかはあんまり判然としない。まともな人はそう思っている。

西城秀樹に「ヒデキー!」とラブコールを送っていた人たちに、群れている感覚はあったのであろうか。わたしの推測するところ、あまりそういうわけでもないのだ。孤立した主体はヒデキなのに、案外、自分もヒデキであり、ヒデキは自分でありみたいな感覚が働いているのではなかろうか。こういうときにこそ、人はそろって同じようなことをやっているものではなかろうか。

実生活で孤立しているかどうかは関係ない。デモやコンサートでの個の融解と、人間関係への闘争や逃避は、めんどうな他人からの逃走/排除という意味においてそっくりなのであり、――しかしそれによって上のような錯覚による個(俺一人)の出現があり得るのである。

まあ、そんなことはどうでもいい。京大の立て看が排除されたとか抵抗しているとかニュースになっている。京大から立て看をなくしたらまた京大の取り柄がなくなってしまうというのは、――他の国立大がかわいそうだから言いたくない。むしろ、その根拠となっている景観条例とやらが恐ろしくくだらないのである。実際に条例をみてみたが、小学生の絵日記並みの感性だ。

私たちの京都は、変化に富んだ海岸線、四季折々に様々な表情を見せる山並み、清らかな水をたたえる河川など、豊かな自然に恵まれており、この美しい自然とのかかわりの中で、丹後から山城までの各地域において、人々の営みや歴史と伝統に培われた文化を映しながら、多くの個性豊かな景観が形成されてきました。しかしながら、都市化の進展や人々の価値観の多様化が、府民の生活や生業に大きな影響を与え、多くの良好な景観がその姿を変え、失われつつあります。私たちは、一人ひとりが、身近にある良好な景観の価値を認識し、府民、事業者、市町村及び京都府の適切な役割分担と協働の下、良好な景観を保全し、育成し、かつ、創造することにより、府民共通の資産として将来の世代に引き継いでいかなければなりません。



知るかっ、という感じであるが、人の生活や価値観の多様化より景観をとるその根性と品性があかん。景観と言うが、本当は景観の問題ではなく、たぶん庭や部屋が汚れているから綺麗にしようみたいな意識である。おそらく土地所有の感覚に近いとみた。どうも京都にいくと、「ここはなんだか死んだ町だな」と思うのは、そのせいだったのである。むろん、これはわたくしが坂口安吾に影響されているというのはあるわね……。すなわち俺一人の意見ではない。もっとも安吾は法隆寺を壊して停車場を作れとかいっていたが、安吾が東京の雑踏が好きだったためだ。安吾が反発しているのは、法隆寺や平等院が醸している私的所有の雰囲気だ。だから「停車場」なのかもしれない。わたくしは、停車場は好きではないが、法隆寺も京大の立て看も好きなので残してあげたい口である。破壊や排除はいやだねえ、と思うからであるが……。

イスラエルとパレスチナでもそうだが、あれはもはや宗教の対立ではない。オレの道路に入るなみたいな、立て看排除と同じく、権力を持った盗人が自分の庭を守ろうとして殺人をやっているだけだろう。田島正樹氏が以前、イスラエルはもう消滅するのは必然。それが正義だろう、みたいなことを言っていた気がするが、――と思ったら今日のブログで再掲されていた。ただ、盗人が勝つこともあるかも知れない。世界的に、グローバリスト(帝国主義者)は、孤独を好むようになってきている。正義の実現は常に移動を迫られる。つまり、パレスチナで無理なら、京大で無理なら、他の土地や大学で……。無理か……。

つまり、広い意味で、「難民」を出したら一巻の終わりというのはあるのである。錯覚による個の出現やそれによる喧嘩は簡単に止まらないし、人が意見を持つ時の不可避的なプロセスでもあろうが、――極端な結果が生じてしまうと、人は人を許せなくなるからである。
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