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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

万博・祭・家

2025-04-11 23:26:02 | 思想


ヤコブ・ブルクハルトさえ、「歴史は幸福のためでなくて、悲劇と涙のために存在する」と言わねばならなかったのです。正義をかかげるだけの勇気も力もなく、使命をも持たぬまやかしの者を、いつも人は正義であるとはき違えてきたからです。

――芳賀壇「何んのために文学するか?」


芳賀みたいな人物はブルクハルトの全体というより一部を取りあげて、歴史は涙のために、みたいな言い方をして歴史をすぐ泣く学生みたいにしてしまうわけだが、まだ、歴史は戦争の歴史で、例えば第一次第二次大戦があります、みたいなことばかり言っているファクト教信者よりはまだわかるのだ。しかし、最近は実証的であろうとすることによってなぜか、封建主義も近代主義もなかったことになっている人たちもいる。

そういえば、オリンピックや万博をむかしからのお祭りみたいなもんだみたいな見方はよくある。これは、芳賀みたいにセンチメンタルではないだけかなりましなけであるが、――ああそうですか、では展示品とかを担いで縦まくり横まくりなどなどして、ぶちこわしてもいいわけですか、展示してあるガンダムに馬乗りして山から落とすとか、やってもいいのですか、と言いたくなる。大学院のコロからわたくしは「近代などはじまっておりませぬ」論者だったわけだが、流石に最近、真似た近代すらなかったかのような論調が出てきてるのは変だ。たぶん、田舎のねちっこい実際のお祭などを実際に経験していない人間が、「祭」と「お祭り騒ぎ」をつねに錯覚してものを言い始めている。

だいたい、万博にガンダムを置いとくとかほんと日本の停滞を顕すようでいやである。ガンダムは伝統芸能だからいいのであろうか。最近のマンガ家をつかってやりゃいいのに、である。例えば「進撃の巨人」のリアル四百体とかを展示したらいかがであろうか。日本はあいかわらず狂ってるというかんじで。ロボットというのが未来らしいというのが既に古いのである。むしろ、呪術何とかとかチェンソーマンみたいな半分肉体みたいなものが流行ってるわけで。

それにしても、「近代の超克」ですらなく、近代と非近代のあいだを振り子のように触れてしまう我々の思考とはいったいなんであろうか。それは三島の言うように振り子ではなく、人間の意識的「転向」であることが重要である。昭和の転向左翼(右翼)がそうだったと思うが、罪悪感は意外なほどはやくなくなり、自分は左翼(右翼)で知的(魂が良心的)だったので、右に転回しても知的(魂が良心的)であることが出来るという、何の根拠もない自信がある場合が多いんじゃねえかなと思う。裏切り者は死んでくれみたいな思想警察が存在したことにも1㍉ぐらい理はあったきがしないでもないのである。いまも似たような人が結構いるからだ。人生は一貫して続くものかもしれないが、思考が発展し続けるとは限らない、――こんな小学生でもわかりそうなことをつい勉強すると分からなくなるのである。

右や左が掲げる様々な観念以前にやはり大事なことがある。人の気持ちを考えない奴、蔑視しているやつ、道具みたいに使う人間とは縁を切る方針である。むろん、急には無理なことが多いから、最終的にそういう状態にもってゆく知恵が重要だ。

しかし、「急に無理」の具体相にめをこらすと我々の社会は息の長い仕組みを長い間脱却できないでいることが明瞭である。明治文学を読んでいると思うのだが、家から独立する家をつくるのに家長制度が有効に働きうるというのはあるのである。家長制度が個人主義への暫定的な措置だったみたいな説をひくまでもなく、実感としてそれは感じられていた。元々養子だったりする子が、物理的にも精神的にも家から独立するための根拠になりうるのである。そうでないと、結婚しても、義理の親とか親戚とかが勝手に家に上がりこんだりするのが、日本の「家長」ならぬ「親」の支配の不遜なところで、最近、またそんなところに戻りつつある気がする。親子の縁を相対的に切る仕組みがどうしてもこの国には必要なのだ。その、家長制度を家長制度で否定するみたいなやり方はうまくはいかず、かえって馬鹿な奴の個人主義を許しただけであったが。日本の「家」主義は、見栄のための結婚制度を始め、多様なのでなんともいえないが、――とてもじゃないが、根本的な相互扶助の組織であったことはない。金と名誉がありそうなところに群がって寄生するもので、その寄生先を増やすための婚姻の強制がいまでもかなり行われている。独立してやっていけないほど貧しくなるとそういうところに簡単に戻ると思われる。


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