★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

低徊の帰趨

2019-01-09 23:14:51 | 文学


薄井敏夫の「低徊」(『コギト』5・6)は、題名が重要である。中盤で、ダンスホールで教えている主人公・語り手の過去の病気、夢や自意識、果ては彼の父親が音楽志望に反対して彼を絶縁状態にしていることの説明を、兄からの手紙を引用して配置し、――前半と後半では、主人公がダンスホールでの会話文を中心とした躁的な落ち着かない場面を配す。全体の構成が、「低徊」になっているわけで、中盤の憂鬱を両側の会話の躁が相対化している。時子という女子への思慕も、中盤でやや深く描かれる(ただしなんとなく理由がよくわからんが……)が、両サイドではほとんど触れられず、むしろ気に入らない蟹崎というレコード係や、凌子というだらしなさそうな踊り手との会話、菓子や酒の描写、が中心である。最後の場面は、みんなで阿弥陀籤をやって買い出し係を決める話で、結局嫌われ者の蟹崎がなんとなく選ばれ、

突然、ホールでわつと歓声がおこつた。多くの人々にとりかこまれながら、蟹崎が得々と大きな菓子袋をかゝへてソファの所へ近づいて来た。


と物語はしめられるのである。

思うに、漱石の「低徊趣味」を措くとして、われわれにとっての低徊というのはこういうことになりがちであり、要するに気休めなのだ。わたくしは、戦時下のロマン主義にしても、文化政策にしても、こういう気休めをふざけずにただ真面目に語っているだけの側面がつよかったのではないかと思っている。われわれにとっての「日本」もそうで、真面目に語るにしてもふざけて語るにしても、奥に何かある(解釈できる)ような内実がない。実際、それはインテリのいつもの頭の悪さといって済ますにはもう少し文化論的に深刻なものだと思う。例えば、戦時下の神道論で有名な筧克彦の著作なんかを眺めると、彼はどこなくユーモアがある人物であり、ふざけつつ真面目にみたいなところがあるのである。彼の「一人の乞食でも之は即国家」みたいな言い方を想起すればよい。――最近読み直していないのでなんともいえないが、彼のような学者はいわゆる国粋主義的なマッチョな感じはしない。しかし、一見、そう思われるだけで、われわれが外国からの視点に頼らず、自分で自分の写った鏡をみてみると、案外筧みたいな表情をしているかもしれず、なんとなく和みそうなところが危険である。傍から見たらやはり危険な人間かもしれないからだ。私が、それに無理矢理な日本人の魂みたいなものを読み込むのはやめた方がいいと思うのは、もともと低徊みたいな精神の場所がわれわれの場合あるからで、――だからこそ、感情の維持を求めて危機に当たって同語反復などにいそしんだりするわけであろう……と。確かにわれわれがわれわれ自身の姿を解釈できなくなっているだけの可能性は高いのだが、――国文学の卒論を多く見てきた経験からすると、大学生の力がないだけ、の問題とはとても思えないのだ。

日本の近代文学は、鷗外や漱石以来、その低徊みたいなところにアイデンティティは可能なのか、追求してきたところがある。戦後も皮肉なことに「左翼」を中心として頑張った(未知なる「民衆」への期待があったからね……)のだが、――八十年代以降、お腹が膨れたこともあって、休憩していた。その代償は大きい。いま、自分の顔をながめてみても、おそらく何もねえぜ。しかしわれわれはそれに耐えられないだろう。
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