★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

乳房と血統

2019-01-06 22:55:04 | 文学
三崎皎とは、のちに俳諧研究者になる杉浦正一郎の筆名である。彼は『コギト』同人で、「開港紀」という連作を書いている。堀辰雄の初期の、港を舞台にした前衛的な「風景」なんかよりも好きだ。その一つである「高架線の記憶」は、プロレタリア文学に屡々見られる朝鮮人労働者の物語の一種である。語り手は、朝鮮労働者たちがつくった高架線を毎朝毎夕通勤につかっている「私」である。「高架線」は彼にとって「記憶のみち」といったものになっているのだが(すなわち、自意識でありファクトでもある事象にどう立ち向かうかという、昭和文学によくあるテーマである)、――なぜかというと、日本中を移動しながら働いているその労働者を父に持つ加代(母親に捨てられて朝鮮人夫婦に育てられた)という少女が、その高架線の開通式の列車に飛び込んで死んだからである。三崎は、死んだ少女の様子を――「ふっくらした乳房がしらじらと見えて居た」とか、頬のまるみに流れる血が「月光に照らされてひくひく動いて居る」とか描写しているのだが、それは意味があって、死の前から、彼女の乳房は時々来る父親からの朝鮮文字の刺々しさと対比されているものなのである。その描写は、生や性の表象であるとともに、朝鮮人との関係の表象なのである。

而して、この小説をコロニアリズムに関係づけて論じることは、小説のなかの記号をいろんな形で繋ぎあわせることで可能である。母親はどうやら日本人らしいしね……。彼女にとって父親がつくった高架線に飛び込むことは、父親への当てつけとも労働をさせている「日本」(の母親)に対する当てつけともとれる、ことになる。

が、わたくしは、むしろ、「乳房」の持つ意味に惹きつけられた。加代の「乳房」は「乳房」を持つ母から生まれ捨てられたことへの意味にさかのぼるものだ。――われわれはみな母親から生まれるのに、女の場合は再度母親になってしまう可能性がある。――父親への当てつけは、娘としてのそれでもあるし、妻としてのそれでもありえた、と読めるわけである。

対して、語り手の「私」は、まだ、乳房をおそらく性的なものとして見ている側面がある。彼としては朝鮮人への暴力性を、だからこそ高架線を使用する自分として性的に自覚しているのであろう。てな具合に、語り手の「私」の疎外感はロマンティズムを生むと同時に単に著しいともいえるわけで、その著しさを無視して「日本人=私」を批判しても意味がない。

差別の問題は、むろん、倫理の問題であるのだが、われわれが上のようなさまざまな意味と感情を乗り越えなくてはならないことを忘れてはならないと思う。近代の長い朝鮮半島との歴史の中では、そこここで、いろいろな事情が乗り越えられ挫折を強いられてきているのであって、われわれはそれを軽視して思い上がってはならないのである。



ところで、上の本の語り手の中川文人というのは、クラシック音楽評論で有名な中川右介の弟だそうだ。また、じいちゃんが、彰考書院をやってた人らしい。なんか、結局、左翼と保守の闘いが、源氏と平家の闘いみたいな血統の話になってきてていやだなあ……。とは思ったが、内容は面白い。八十年代以降、「1968年」の流出(絓秀実)の一端を知ることが出来る。昔からさんざ言われているように、運動が下火になってから真の抵抗運動は始まるのである。これは心がけの問題ではなく、単なる原理の問題である。
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