★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

赤面逆上的混乱苦痛とともに、誤謬の訂正的発狂状態が起る(坂口安吾)

何でも書いてやろう

2018-05-14 23:04:04 | 文学


先日小田実の『日本の知識人』を貶めてしまったので、なんだか悪いなという気になり、寝っ転がって『何でも見てやろう』をパラパラ再読してみたのであるが、若々しいオーラが出ている書物であった。そういえば、彼が二十歳の頃書いた長篇を以前読んだことがあるが、すごくよかった気がする(しかし題名忘却)。学生時代の小田の勢いはすごかったのであろう。

最初の、さっぱりしているんだか案外いいわけじみているのかよくわからん始まり方はあまり好きではない。この書物は見かけより自意識的な描写が多い書物だと思う。つまり明らかに、近代文学的なものの延長線上にあるのである。笠井潔が解説で、小田の豊かさを持たない若者がたくさん海外でたむろっている、みたいなことを書いている。笠井はそれを「貧乏度」が「深まっている」というメタフォリカルな言い方にしているが……。ちなみに、わたくしは、この書物のおもしろさは「何でも見てやろう」というより、「何でも書いてやろう」みたいな側面であると思った。今でいえば、小田というのは、東浩紀のいう「観光客」的なもののはしりであったが、今は特に旅する若者が「何でも見てやろう」という境地に達するのは、そんな簡単なことではなく、逆に視野の狭さを招くという感じがする。わたくしの経験からいうと、ある視角(観念)は広範な知識を充足することで強固に縮小するからだ。小田もユーモラスなはすっぱな文才があるという意味で――賢すぎるという感じがする。

ただ、いえるのは、小田が「まあなんとかなるやろ」みたいな感じでこれだけのことをやっているのは、小田の英語が「まあなんとかなるやろ」みたいなものだったからではないかということであった。最近も、英語の四技能がなんとかとか、スピーキングがなんとかとか、クソじみた政策が実行されようとしているが――、そもそも、面白い小説も論文も読まずに小さい頃から受験対策ばっかやっているやつに、グローバル人材になれというたところで、どだい無理な話なのだ。人として無理だろう、そんなのは……。(しかし、現実には、そういうやつが文学者になることも残念ながら結構ある。クソっ)簡単に言えば、小田が旅に出たのは、文学者が外国にいたからだ。文学者どうしなら「まあなんとかなるやろ」と思っていたわけだろう。彼がロブ=グリエと会う話は面白い。ほとんどお互いに話が通じないのに、日本で彼の作品を掲載する話を小田が持ち出すと、ロブ=グリエが「原稿料ちょっとはでるん?」と聞いてきた。そこだけははっきり分かったと言うのである。
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