★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

心が叫びたがっているんだ。で、何を?

2018-04-14 23:32:24 | 映画


青春映画は多いが、この前5つで1000円の棚に置いてあったので掴んで来てしまったものの一つである。「心が叫びたがっているんだ。」である。

この題名のセンスがどうもひっかかる。安部公房なら「腹痛卵」とかにするであろうし(←こんな話を書くわけないが)、横光利一なら「青春は卵に乗って」とかにするであろうし(←やつなら書いてくれるっ)、谷崎潤一郎なら「唖人の愛」にしてくれる。

内容は、まあおしゃべりが過ぎる女の子が自分のおしゃべりで父親の不倫を母親に報告してしまい、彼らは離婚。そのトラウマでしゃべれなくなった(卵の妖精が口にチャックをしてしまったのだ)女の子が、高校の仲間とミュージカルをしてそこで自分を模した物語を唄うことで乗り越える話である。と要約してしまうとあれなのであるが、予想に反して結構面白かった。確かに、今の学生はこんな感じのメンタリティの中に生きているような気がする。しかしまあ、物語を歌うことでしか心を表現できないなんて、ムソルグスキーやショスタコービチの世界ではないか。現代日本はソ連かよ。

しかしそんな問題とはこの映画は違う。その「心」とやらが、結局のところ、あまりたいしたことではなさそうなのである。気持ちはよく分かるし、青春はこんなところがあるよなあと思うけれども、この映画で描かれた課題というのは、どうも小学校5年生ぐらいのそれではないか。普段からコミュニケーションのスムーズな流ればっかりを意識した嘘ばっかりついているから、いざという時にはちゃんと話をしなきゃという、小学生で解決すべき課題が、高校生にまで延長されているとしかおもえん。

ちなみに、主人公の女子に問題があるのは、単におしゃべりなのではなく、ラブホテルをお城と勘違いするタイプの思考の持ち主だということである。よくわからんが、どんなに幼くても、「そういうこと」は勘で分かるものではなかろうか。それが分からない。彼女のそういう側面は、高校になっても変わっていない。だから、自分の「王子様」が自分ではない女が好きだと分かると、「王子様」が描かれている物語が上演されるところの、その公演の直前で逃げ出してしまうことになる。あるいは、自分のつくった物語に沿って罪を犯しに行ったのかもしれない(物語のなかでは、罪を犯すことによってお城=実は罪人の処刑場に行くことができる)。しかし、その元「王子様」に、悪態をつき好きですと現実に言ってみたら、その「物語」の呪縛が消える。そして彼女はしゃべれるようになるだけでなく、現実世界では彼女を好きな男の子がもう存在していたりするのである。言葉は心の叫びのままではない。心で描いていた作用とは別のことをもたらすこともあるし、自分には見えない現実がたくさんある、――おそらく彼女はそんな複雑だが偶然に満ちた美しい現実世界に回帰したというわけであろう。

しかしながら、わたくしの経験上、物語はそんな簡単に消えるものではない。結構、レベルの低い物語を人間は身体に食い込ませているものだし、ある程度そういう側面もないと、別の意味でコミュニケーションに支障をきたすのである。

今回の森友や加計の問題があれなのは、それが公文書管理の問題、すなわち近代国家の問題でもあるということに一応はなるであろうが、――それ以上に、政治家のもつ物語(理想)があまりにも幼稚すぎるということが、正確な公文書を作れないレベルの困難をもたらしてはいないだろうか、という疑念があるからである。実際の教育現場を観ていないので断言しかねるとはいえ、籠池の教育方針はさすがにあれすぎてあれであったし、そこに共感する政治家やなにやらは完全に人としてイカレているといってよいと思う。しかし、そう考えてみると、一見リベラルに見える教育者だって相当あやしい人物がたくさんいる。教育者だけではない、テレビのコメンテーターや解説委員なんかも、全く内容のないことを偉そうにしゃべっている。これは実際、本当のことを偽造しているという意味で公文書偽造と同じようなもんである。しかも、そういう一種の嘘をついているという意識が消滅しているところに悲惨さがある。かかる人間として信用できないという意味で信用できない人間は、いまや、左にも右にも官僚にも何もかもに溢れかえっている。かくして、――そういうなかでは、まだ安倍はそれでも耐えて一応「頭はそんなによくないけど純朴な大方の日本人」のために仕事をやってるじゃねえか、みたいな妙な信用が生じてしまったりもするわけだ。

我々は、職場で、あまりにも口先だけの、軽薄な物語を語る人間を目撃しすぎているのである。だからそれへの絶望が、安倍批判に向かうか、安倍支持に回るかに分岐しているにすぎないのではなかろうか。おそらく、安倍という人物が、口先野郎にも見えるし、それにしては木訥な人物にも見えるから、その分岐が可能なのであろう。


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