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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

壊死した自己

2025-04-17 23:30:15 | 思想


僕の家のすぐそばに巨きな廃工場があって、そこは戦時中日本の軍需物資を作っていたゴム工場で、僕たちは張りめぐらされたバラ線をくぐり抜けては、まさに宝庫というしかない工場に立ち入った。 防毒マスクの部品をはじめ、得体のしれない数々の小さな金具が山となって棄てられていた。たくさんのなかからいいヤツを選んで、僕たちのポケットはいつも欲しいだけの宝物で重くふくらんでいた。 家から近かったし、日ごろから友達とついはぐれることの多かった僕は、晴れた日にはいつも一人で本を持ってしのび込んだ。裏庭の、鉄やゴムや草の匂いと、焦げるような日向の匂いのなかで、読んでいる本の世界をふとはなれて、思いのまま、さまざまな夢想の世界に遊んでいたことを僕は昨日のように憶えている。

――森山大道「壊死した時間」


森山氏の文章は氏のすごい写真以上にノスタルジーに溢れかえっているが、上の部分の前には、朔太郎の「猫町」の描写があったり、そもそも題名が「壊死した時間」である。彼にとっての過去は、彼が文章を書いて塗ればぬるほど対象が遠ざかり、時間が止まったみたいに、すなわち絵のようになっていくのであった。芳賀壇は「ゲーテと人間」で次のように言っている。

ゲーテの「ゲーテは「あきらめ」と云うことを云っていますが、「あきらめ」は[…]己れ自身の上に立つこと、自分を超え、どの様にも捉われぬことであり、人間を高く、自由にするものであります。[…]『マイステル』の「遍歴時代」には「あきらめの人々」という題名がつけられている

「あきらめ」のために、かくも長い記述(というより「修行」)が必要なことは重要である。我々は諦めが悪く、みずからを流動するジャーゴンや何者かにいちいち沿わせて右往左往する。諦めは人生や社会に対するものではなく、そういう流れてゆく何かにたいするものである必要がある。特に、闘う人々はよくそのことを知っておく必要がある。

例えば、発達障害者を差別するな、と主張する闘いかたは、「我々は労働者」を合い言葉とした社会主義運動(というより「プロレタリア」文学運動)と同じく、みずからがラベリングを引き受けるやり方で団結し、差別を逆用するものである。だから逆にそのラベリングのおかげでより貼り付けられた差別の表徴が強力になってしまう事態を避けるための闘いも一方で必要なのである。いってみりゃ、転向文学は、その意味で、いったん「労働者」を人間に還元するための「進歩」だったのだ。それがなければ、戦後文学はありえない。そういえば、私の知る新左翼や新右翼のかたは、闘いのテーゼからはずれ人間的な泥沼に陥ったことを悔いている方も多いのだが、その泥沼でよかった面もかなりあるにきまっているのである。あまりに悔いすぎると、次世代に対して純粋さを期待してしまうのはある。で、結局そうはならないわけで、下手すると自分のほうがまだましだったみたいな絶対化に陥る。

職場でのトラブルを発達障害のせいにしたい人々と、発達障害のラベルを武器にするやりかたは、同じ武器を持っているパワーゲームになってしまいがちである。だから、つねに何がどのようにトラブルになっているのかという問題に戻していかないと逆に事態は悪化しかねない。そもそも仕事そのものがどのような考えのもとに必要なのか、やり方は適切なのか、みたいな問題を、まずは民主的な手続きや公平さ以前に検討しないと、少数派だから正しいとか多数派だから正しいとかいう思考にいつも差し戻されてしまい、様々な人間に怨恨だけが残る。例えば、*さんはそういうタチ(能力)だからという配慮をすることは安易に判断されるが、それが精確かどうかみたいな問題もあるが、一方で、その人がそういう風に演技している可能性を瞬時に考慮するみたいな感覚――判断力が、多くの人から奪われてきている。発達障害でもそうでなくても自意識によるネジクレはつねにあるわけだ。差別する側も差別される側も人間観が純粋な人形みたいになってしまっては元も子もない。

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