ブルー~渡辺真知子さん(1978年)
テレビの昼のワイドショーでやっていた「今日は何の日」というコーナー。
今日は、隅田川花火大会が復活した日だそうだ。
昭和37年から、交通事情や民家への影響を理由に中止されていたものが、昭和53年の今日、復活したというのだ。
当時私は大学4年だった。
そして、その日をハッキリ記憶している。
何故なら、その花火大会がテレビで中継されたからである。
普通、花火程度ではテレビ中継なんぞする筈がない。
それがそういういきさつがあったからこそなんだろう、なんとゴールデンタイム(だったと思う)に中継されたのである。
とはいいつつ、ちょっと気になったので調べてみると、
なんと実情は、
>1978年の第1回より毎年テレビ東京が独占中継し、関東ローカルで放送している。
ということらしい。
なにはともあれ、その復活の年のテレビ中継を私は懐かしく記憶している。
それは、大学が夏季休暇に入って、翌日は郷里へ帰省するという前夜、新大久保にあるガールフレンドのアパートに泊まって観たのがその中継だったから。
彼女はバイトの関係でもう少し東京に残るところ、私だけ一足先に帰省するという状況だった。
東京を基点とすれば、こちらは西で彼女は北と、ぐっと離れることになるから、なんとなくお互いにいつものノリではなかった。
そんなときにボーっと眺めていたのが、くだんの花火大会だったのである。
その翌朝、まだ眠っている彼女を起こさないよう、そっと部屋を出た。
すると、外は目に眩しいほどの陽光が燦々と降り注ぐ「夏のど真ん中」だった。
その静から動への場面転換が、湿りがちな私の心に空元気を与えたようだ。
新大久保から区役所通りを経て新宿へ。
あの朝、歌舞伎町から新宿駅へ繋がるスクランブル交差点で見上げた夏空が、
今でも妙に脳裏に焼きついている。
というより、その瞬間、
「あ、これずっと覚えていよう」
と、思ったのだ。
何故か私にはそうした習性があるようで、事実、それらの記憶たちがそれぞれ一葉の写真のように集められて、心のアルバムに整理されているように想う。
彼女には後日、黙って帰ったことをしっかりと叱られた。
そしてそれからまた色々あるのだが、今日はそういうことを書きたかった訳ではないので、ここまで・・・
濡れた髪のLonely 池田聡(1987年)
もうひとつの今日は、昭和62年(1987年)である。
その年の今日、新居浜では花火大会だった。
大体が、イベントを時系列で記憶しているのは学生の頃まで。
その年私は、31歳。
どっぷり社会人だ。
普通なら覚えてる筈がない。
そこを覚えているのには理由がある。
何故ならそれは、次男が生まれた日だから。
次男は、市内のK西産婦人科でその日の夕方に生まれた。
細君をねぎらっているときに外では「ドンド~ン」と花火の音がしていたのである。
そして私は、「この日は一生忘れんやろなあ」と、心の中でひとりごちた。
面白いもので、東京に住んでいた頃は、心の中で呟くときも東京弁だったのだが、この頃はもうしっかり「新居浜弁」なのである
さういえば、今年は明日が新居浜花火大会の予定だったかな?
でも、「覚えておこう」という気分にはならないんだろうなあ多分、これが。
そりゃそうだ、そうそうあっちゃあたまらない。
時々キラっと輝くような出来事だからこそ、その値打ちがあるのだろうから・・・
テレビの昼のワイドショーでやっていた「今日は何の日」というコーナー。
今日は、隅田川花火大会が復活した日だそうだ。
昭和37年から、交通事情や民家への影響を理由に中止されていたものが、昭和53年の今日、復活したというのだ。
当時私は大学4年だった。
そして、その日をハッキリ記憶している。
何故なら、その花火大会がテレビで中継されたからである。
普通、花火程度ではテレビ中継なんぞする筈がない。
それがそういういきさつがあったからこそなんだろう、なんとゴールデンタイム(だったと思う)に中継されたのである。
とはいいつつ、ちょっと気になったので調べてみると、
なんと実情は、
>1978年の第1回より毎年テレビ東京が独占中継し、関東ローカルで放送している。
ということらしい。
なにはともあれ、その復活の年のテレビ中継を私は懐かしく記憶している。
それは、大学が夏季休暇に入って、翌日は郷里へ帰省するという前夜、新大久保にあるガールフレンドのアパートに泊まって観たのがその中継だったから。
彼女はバイトの関係でもう少し東京に残るところ、私だけ一足先に帰省するという状況だった。
東京を基点とすれば、こちらは西で彼女は北と、ぐっと離れることになるから、なんとなくお互いにいつものノリではなかった。
そんなときにボーっと眺めていたのが、くだんの花火大会だったのである。
その翌朝、まだ眠っている彼女を起こさないよう、そっと部屋を出た。
すると、外は目に眩しいほどの陽光が燦々と降り注ぐ「夏のど真ん中」だった。
その静から動への場面転換が、湿りがちな私の心に空元気を与えたようだ。
新大久保から区役所通りを経て新宿へ。
あの朝、歌舞伎町から新宿駅へ繋がるスクランブル交差点で見上げた夏空が、
今でも妙に脳裏に焼きついている。
というより、その瞬間、
「あ、これずっと覚えていよう」
と、思ったのだ。
何故か私にはそうした習性があるようで、事実、それらの記憶たちがそれぞれ一葉の写真のように集められて、心のアルバムに整理されているように想う。
彼女には後日、黙って帰ったことをしっかりと叱られた。
そしてそれからまた色々あるのだが、今日はそういうことを書きたかった訳ではないので、ここまで・・・
濡れた髪のLonely 池田聡(1987年)
もうひとつの今日は、昭和62年(1987年)である。
その年の今日、新居浜では花火大会だった。
大体が、イベントを時系列で記憶しているのは学生の頃まで。
その年私は、31歳。
どっぷり社会人だ。
普通なら覚えてる筈がない。
そこを覚えているのには理由がある。
何故ならそれは、次男が生まれた日だから。
次男は、市内のK西産婦人科でその日の夕方に生まれた。
細君をねぎらっているときに外では「ドンド~ン」と花火の音がしていたのである。
そして私は、「この日は一生忘れんやろなあ」と、心の中でひとりごちた。
面白いもので、東京に住んでいた頃は、心の中で呟くときも東京弁だったのだが、この頃はもうしっかり「新居浜弁」なのである
さういえば、今年は明日が新居浜花火大会の予定だったかな?
でも、「覚えておこう」という気分にはならないんだろうなあ多分、これが。
そりゃそうだ、そうそうあっちゃあたまらない。
時々キラっと輝くような出来事だからこそ、その値打ちがあるのだろうから・・・
海外出稼ぎの最中だったので全く記憶にないのです。
中ヒット程度かな?
して、ミスターブルーは歌い手が違いまんがな・・・