【斎藤吉久メールマガジン】
vol.23朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み 発行日:4/28
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1 朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
2 筆者のプロフィール
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1 朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
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閣僚らの靖国神社参拝が国際的な議論を呼んでいますが、とりわけ朝日新聞は先週一週間のうちに3度も社説で取り上げているほど、じつに熱心です。
23日は「靖国問題―なぜ火種をまくのか」、24日は「靖国問題―政治家は大局観を持て」、そして26日は「靖国と政治―静かな参拝のためには」という具合です。
3本の社説に共通している主張は、近隣諸国との連携が必要とされているときなのだから、日本の政治家は自制に努めるべきだということでしょう。
しかし、日本側がこれまで自己抑制してきたことが、逆に問題の根本的な解決を阻んできたのではないでしょうか?
すでに指摘してきたように、朝日新聞の記事がそうであるように、基本的な事実関係すらねじ曲げられています。これでは火種は収まらず、大局は失われ、戦没者の静謐なる慰霊・追悼は到底、実現できません。
たとえば、「戦後唯一の神道思想家」といわれた葦津珍彦は生前、「過去を陳謝するより、弁明すべきだ」と主張しています。
私も同感です。この際、事実に基づいて、きちんと徹底的に反論すべきです。それなくして、本当の和解は得られません。ただ、それはアカデミズムとジャーナリズムの仕事です。
というわけで、月刊「正論」平成11年4月号に掲載された拙文「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」を転載します。一部に加筆修正があります。
「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、昭和から平成への御代替わりを見定めるかのように、即位の礼から1年後の平成4年6月、82歳でこの世を去りました。
その葦津が人生の大半を過ごした古都・鎌倉の自宅に、昭和19年に朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン、???)から贈られた一幅の書が伝えられています。畳一畳ほどもある大きなもので、「万里相助」と墨字で書かれています。葦津は生前、これをときどき掲げては、力のこもった惚れ惚れするような行書体を静かに眺めていたといわれます。
日本の神道といえば、戦前の大陸侵略を導いた狂信的イデオロギーのようにしばしば考えられています。戦後の神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持運動などに中心的役割を果たした葦津を、「国家神道イデオローグ」と見なす人さえいます。
だとすれば、青年期にキリスト教の洗礼を受け、やがて朝鮮独立運動に身を投じ、上海の大韓民国臨時政府樹立に加わり、第二次大戦終結後には建国準備委員会を組織し、「朝鮮人民共和国」の副主席ともなった建国運動の中心人物の書が、なぜ葦津家になければならないのでしょうか。
その謎を解くことは、知られざる近代日韓(日朝)関係史を明らかにすることであると同時に、韓国歴代大統領の来日のたびに日本政府の「謝罪」が繰り返されてきた、戦後の異様な日韓外交への痛烈な批判ともなるでしょう。
▼つづきはこちら。
http://melma.com/backnumber_196625_5809985/
vol.23朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み 発行日:4/28
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1 朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
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1 朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡
───大三輪長兵衛、葦津耕次郎、珍彦の歩み
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閣僚らの靖国神社参拝が国際的な議論を呼んでいますが、とりわけ朝日新聞は先週一週間のうちに3度も社説で取り上げているほど、じつに熱心です。
23日は「靖国問題―なぜ火種をまくのか」、24日は「靖国問題―政治家は大局観を持て」、そして26日は「靖国と政治―静かな参拝のためには」という具合です。
3本の社説に共通している主張は、近隣諸国との連携が必要とされているときなのだから、日本の政治家は自制に努めるべきだということでしょう。
しかし、日本側がこれまで自己抑制してきたことが、逆に問題の根本的な解決を阻んできたのではないでしょうか?
すでに指摘してきたように、朝日新聞の記事がそうであるように、基本的な事実関係すらねじ曲げられています。これでは火種は収まらず、大局は失われ、戦没者の静謐なる慰霊・追悼は到底、実現できません。
たとえば、「戦後唯一の神道思想家」といわれた葦津珍彦は生前、「過去を陳謝するより、弁明すべきだ」と主張しています。
私も同感です。この際、事実に基づいて、きちんと徹底的に反論すべきです。それなくして、本当の和解は得られません。ただ、それはアカデミズムとジャーナリズムの仕事です。
というわけで、月刊「正論」平成11年4月号に掲載された拙文「朝鮮を愛した神道思想家の知られざる軌跡」を転載します。一部に加筆修正があります。
「戦後唯一の神道思想家」といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)は、昭和から平成への御代替わりを見定めるかのように、即位の礼から1年後の平成4年6月、82歳でこの世を去りました。
その葦津が人生の大半を過ごした古都・鎌倉の自宅に、昭和19年に朝鮮独立運動家・呂運亨(ヨ・ウニョン、???)から贈られた一幅の書が伝えられています。畳一畳ほどもある大きなもので、「万里相助」と墨字で書かれています。葦津は生前、これをときどき掲げては、力のこもった惚れ惚れするような行書体を静かに眺めていたといわれます。
日本の神道といえば、戦前の大陸侵略を導いた狂信的イデオロギーのようにしばしば考えられています。戦後の神社本庁設立、紀元節復活、靖国神社国家護持運動などに中心的役割を果たした葦津を、「国家神道イデオローグ」と見なす人さえいます。
だとすれば、青年期にキリスト教の洗礼を受け、やがて朝鮮独立運動に身を投じ、上海の大韓民国臨時政府樹立に加わり、第二次大戦終結後には建国準備委員会を組織し、「朝鮮人民共和国」の副主席ともなった建国運動の中心人物の書が、なぜ葦津家になければならないのでしょうか。
その謎を解くことは、知られざる近代日韓(日朝)関係史を明らかにすることであると同時に、韓国歴代大統領の来日のたびに日本政府の「謝罪」が繰り返されてきた、戦後の異様な日韓外交への痛烈な批判ともなるでしょう。
▼つづきはこちら。
http://melma.com/backnumber_196625_5809985/