心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

情報と志に関する考察

2011年01月11日 | 思索
イソップ童話に『狼と羊飼い』という話がある。狼が来ていないのに、狼が来たと言っては村人を騒がせ、結果本当に狼が来た時には、誰にも信じてもらえず、村の羊が襲われ死んでしまい、話は終わる。嘘をつきすぎると、本当のことを話しても誰も信用しないという、たとえ話。

この少年が呼びかけた『狼が来た』というのは、一つの情報でもある。言い方を変えれば、羊を守るために村に警告を発信したわけだが、意図的な誤報によって、だんだんと信用は薄れ誰も警戒しなくなり、結果大切に育てていた羊が全滅してしまったという結末だ。

情報に寄せられる信頼というものは、突き詰めれば、発信者そのもの=発言の中身と行いであるという事が、この『狼と羊飼い』にも垣間見れるだろう。

情報には2つの区分があり、その区分の中に3つの時の中から構成されている。1つ目は事実関係のみを発信する場合、2つ目は情報を知った人が自身の思想を盛り込み発信する場合である。3つの時とは、過去・現在・未来だ。新聞一つとっても、朝日新聞と産経新聞では事実関係の表現に差がある。情報を発信する側には、表現の中に必ず思想が入り込んでいる。もちろん、思想だけでなく、経験や知識やその発信する人の品格に至るまで全てだろう。




一昨日、青山繁晴さんに関する情報があった。それは二階堂ドットコムの記事だった。

改めてこのサイトの情報を読んで感じた区分は、情報を知った人が自身の思想を盛り込み発信しているタイプのものであった。そして率直な感想は、国を憂い、世の中を少しでも良くしたい志は存在しているが、話の中身に触れれば触れるほど、志の位置に高さが感じられなかった。よく、志の有無については、語られる事もあるが、この高さについて意識的に話す機会もそう多くはないだろう。

志にはさまざまな種別があり、同時に高さがある。思想・哲学・知識・正義・品格を意識する事によって芽生えた自覚を、経験によって育み、そして育んだ結果、高さが生まれる。個人的にはそう感じている。

公に向けられた志がより高度になれば、極論で言えばノーベル平和賞受賞に値するぐらいの社会に向けた奉仕による貢献も実行出来るだろう。この高さを計る目安は、私心を捨て、一所に世の中のためになる行いを考え、どれだけ実行しているか、だと考えている。

わたしはこうした基準で、二階堂氏が発信した情報を推し量り、志はあるが、別段高くないと感じていた。この総評は、彼自身のブログのスペースで、今回の情報を公表するか否かの分別が、彼自身で付けられなかった事がそもそもの起因であり、確固たる裏も取らず、退職者の話をそのまま引用し、自身の感想も添えながら発信してしまった意識の低さに対し、志は高くないと感じたまでだ。

時代は、インターネットの普及によって、情報が溢れかえっている。これまでなかなか知る事が出来なかった事も、知れる機会に恵まれ、一定の利益を生んでいる。しかし、一方では、どちらでも良い事の情報と判断されるものによって、大切な情報をもかき消されている現状がある。

これによって、情報社会が与える人のこころの影響は、だんだん変化して来ているだろう。事柄の種別において、関心と無関心が両極端に分かれ、認識の差がどんどん出てきている。興味のある事のみにしか関心が向かない。情報も関心あるものしか持たない。生きる上で大切な情報を共有また共通認識されにくい時代になっている。

この状況は選択肢の自由を推し進められた事によって必然として生まれる構造の薄さだ。数はあっても、その一つ一つに重たさがない。多種多様は、好みの選択をある種愉しむ事も出来るが、その質は薄められている。こうした自由さを演出したものに触れ続けると、ホンモノもニセモノかにさえも、こだわりを持たなくなる。故に、何が良とするのか、この価値を見出しにくくなるのは必然だろう。そういう心根に変化していっている現状が、構造の薄さによって、社会の流れは作られているように感じている。

この実情から、平行して言葉に対する意識も変化している。礼節を重んじる表現ではなく、相手を欺く表現が手軽に出来るようになった。面と向って言えない人も、画面のフィルターを通して、実像を明かさず暴言を吐くまでになっている。こうした変化が始まった時期は、インターネットの普及からだが、自分を認めて欲しいがための存在感の誇示。そして、相手を傷つけることによっての得られる優越感。自身が発した言葉の責任という概念すら自覚が足りない。どれもご立派とは言いがたい素行である。

批評批判に対する概念の誤解がこうした行動を安直にさせていると思われるが、批評批判とは、相手の意見と自分の意見が異なった場合発生する行為であり、且つ自分の善とする案を提示してこそ初めて成立する。この善とする案の提示が出来ない場合は、難癖をつけているに過ぎない。昨今、ここの境界意識があいまいな書き込みが見受けられるが、相手に物申す場合は、自身で善の案を持った上で本来相手に提示すべきである。

今回の二階堂氏が書いたものは、批評批判の類ではなく、ワイドショー的発想の安直な表現である。本来、志を重んじるのであれば、自身のサイトで公開するに値する内容かどうか、また公に対し何の役にも立たぬ情報だと気付くはずだ。これを気付かず公開した事は、現在の彼の志はすっかり麻痺し、サイト開設当時の志は、過去のものになってしまっているという結論に至るだろう。

ダライラマはこう言っている。
『人を助けなさい。助けることが出来なければ、人を傷つけないようにしなさい。』

志はあっても、自省や謙虚さを持たねば、誠実さは生まれにくい。よって、志の重さを忘れた文章というものは、時にこうした失態を自ら招くようになる。志を自覚し、忘れぬよう心がけていれば、このような行いは絶対にしない。

なぜなら、その行いそのものが恥だからである。情報が公のためであるという志ならば、公のために尽くそうとしている人を傷つけてはならない。言論者は、志を持つと同時に、その志にある本質を崩さず、言葉を発する事が重要である。読み手が見ているのは、言葉による情報だけではない。志にある人間性をも同時に見ているのだから。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。