できるだけごまかさないで考えてみる-try to think as accurately as possible

さまざまなことを「流さずに」考えてみよう。"slow-thinking"から"steady-thinking"へ

「一般の人が十分な文章スキルを持たないのは通常の事なので」がいかにも(がれき受け入れ問題)その3

2012-02-07 14:51:11 | 根っこのところ

その1その2に続き、これがその3である。

 

ただ、ここでは基本的なものの考え方について書いてみようと思う。まあいわゆる「政治的イデオロギー」の話なのだが。

 

タイトルを、「いかにも」で終えたのは、あくまでもgooブログの制約によるもので、本当はこういうタイトルにしようと思っていた。(字数が多すぎてはじかれた(笑))

・「一般の人が十分な文章スキルを持たないのは通常の事なので」がいかにも共産主義思想(がれき受け入れ問題)その○

 

去年(2011年)の1月末(2月初め)の朝生からず~っと気になっていることがあって、それは、昨年1月末の朝生にあの竹田恒泰氏が出ており、彼の発言に対して、ツイッターでlawkus氏という司法修習生(当時)がこういうツイートを連発していたところに端を発する。

 

 

まあ、本人の発言を叩く代わりに、本人が大学の教員であれば、大学を叩くというのは、一般人がよくやることではある。でまあ、なぜこの人のツイートが目に入ってしまったかというと、私がたまたまツイッターをしながらこの朝生を見ていて、こういうコメントを入れてしまったからである。全く、縁とは不思議なものだよ。

で、その朝生の後日、竹田恒泰氏を無理筋で叩く別のアホ(笑)とけっこうバトルになったのだが、それはこの記事の主旨とは関係ないので省略しておく(笑)。興味があれば私のtwilogでも漁ればよい。

でまあ、そのアホとのバトルに、このlawkus氏が再び介入し、「あ、あのlawkusか」と思い出すことで、私は彼のことを記憶するに至ったのだが、彼がこういうツイートをしていたことが非常に気になっていた。

 

 

違うなあ。『「○○大学教授」という肩書きに付着する「権威」で、その発言の信頼性を判断する』という姿勢こそが、「自分の頭で考えていない」という証拠で、それは高校生だろうが大学生だろうが、中卒生だろうが学校に行っていない者であろうが、学歴に関係なく、自らの思考能力を貶めるものだけでなく、自らものを考える姿勢を放棄する、絶対にしてはならない行為であると私は考える。例えばこういうネガティブループができてしまうのだから。

 

・どうせおれは低学歴 → 自分で考えてもどうせわからない → 大学教授の発言なら鵜呑みにしてもいい → ああやっぱりおれは自分で考える力がない →(以下スタートに戻る)

 

※これは、選挙で投票しないで政治に文句をいっているバカと、きわめて思考回路がよく似ている。

・どうせ誰に入れても同じ。投票しない。 → 民主党になっても政治って変わらないよね → 今の政治ってひどいね!消費税増税反対! → でもどうせ誰に入れても同じ。投票しない。(以下ループ)

 

しかも、その後のこの発言が最悪である。

>受け手にリテラシーを求め得ないからこそ,トンデモ学者や彼らに権威を付与する大学が批判に値するのだともいえる。

「受け手にリテラシーを求め得ないからこそ」とは、「求め得ない」の意味を考えても、「どうせ情報の受け手にはリテラシーはないのだから」と同義であり、この発言は、単に、学者やその学者が所属している大学の名前だけで、その学者の発言の正しさを判断しようとする、一種のフェティシズム(物神主義)に他ならない。←フェティシズムの学問的意味は本来、こういう意味なので、各自調べるとよかろう。こういうことの積み重ねが、「自分で考えること」の基礎になっていく。

 

まあ、ネットスラングでいうところの、単なる「学歴厨」=学歴至上主義、学歴中心主義 とあまり変わらない。

 

当時(昨年3月)、私は、司法修習生ともあろう俊英(笑)が、これだけ学歴フェティシズムに染まっているものかと、軽いカルチャーショックを感じざるを得なかった。

 

ただ、よく考えると、こういう姿勢は、あの共産主義とまったく同じなのだ。私の考える共産主義の理論的支柱である「唯物論的政治イデオロギー」とは、

 

1 「正しく」考えれば、誰でも結論は同じものに至る。人によって主張が異なるのは、「正しく」考えていない者がたくさんいるからだ。

2 「正しく」考えるということは、マルクスの言うような考え方に基づくものだ。←司法修習生の場合、「法律学の教科書にあるように考えることだ」と置き換えることができよう。

3 人民(笑)が全員「正しく」考えることができれば、人民の考えは皆同じになるはずなのだから、あとは考える速度の違いだけが問題になる。

4 だから、「考える速度が速い者」を政治的指導者にし、残りの人民は、考えても結局その政治的指導者と同じ結論に至るのだから、考える時間があったら、政治指導者の指示するように、効率よく「労働」すべきである。すなわち、合議制に基づく民主主義は「ムダ」だ、という結論になる。

 

以上である。これこそが、中国や旧ソ連、そして北朝鮮で未だに行われている「民主集中制」という政治制度の理論的支柱である。例えば、中国国内で数百万人も「粛清」されたと言われているあの悪名高い「文化大革命」は、

・毛沢東主席と結論が違う者は反乱分子だ!殺し尽くせ!一般人民は毛主席の言う通りに動けばいいのだ!!

と、上記のような「毛沢東フェティシスト」が中国全土で暴れ回ったから起こったことである。裏で糸を引いていた人間がいるとは言え、こういう「革命(笑)」が中国全土で吹き荒れるためには、中国人一般に、上記のような「学歴フェティシズム」があらかじめ、かなりの度合いで刷り込まれていたからだと推測できる。

これと全く同様に、いわゆる現代日本の「学歴厨」の根底には、こういう価値観が意識無意識を問わずに流れていると言える。

 

そこで、この前の記事で扱ったこの発言に戻る。

 

 

>一般の人が十分な文章スキルを持たないのは通常のことなので

 

・・・ああ、ここにもいたか!共産主義者(笑) と私が思ったことがおわかりいただけると思う。lawkus氏やyukichi氏が意識的にせよ無意識的にせよ前提としている事柄は、

 

・自分は「考えることができる人 or 十分な文章スキルを持っている人」であり、他者のほとんどは「そうでない人」であり、

・だから、「自分たちが、考えることができない人 or 十分な文章スキルを持っていない人」を、指導 あるいは 導いて あげなければならない。

 

という価値観である。だから前の記事で、こういうツイートは「きわめて悪質だ」と評したわけだ。

 

なぜこういう発想が悪質なのか。2点ある。

 

1 自分が「考えることができる人 or 十分な文章スキルを持っている人」であると思える根拠は何なのかが全くわからないのに、他者に簡単にレッテルが貼れる点。それは単に「自分がそう思っているだけ」に過ぎない。たとえこの発話者が、司法試験をクリアした司法修習生であっても、その卓越した能力は「法律学、あるいは法律実務」に限定されるものであって、例えば朝生での竹田恒泰氏の発言に関して「権威」をもって(with authority)批判できるのは、「司法試験をクリアするための法律学の考え方」という見地からだけであって、朝生での竹田恒泰氏の発言は、法律学だけのものにはとどまっていなかった。だとすれば、法律学以外の範囲に関して、竹田恒泰氏の発言を批判的に吟味する能力も資格も、司法修習生であったlawkus氏にはないではないか。

 

しかしlawkus氏は「朝生を見ていない」と言う(笑)。

 

 

だったらなぜ朝生での彼の発言についてバトルしている私と某アホ(笑)との話に首をつっこんできたのかという話である(笑)。そこには、

「竹田恒泰はアホである」

ということは、自分の専門(だと本人が思っている)である法律学に照らすと「自明」であるという盤石の自信があるからであろう。簡単に言えば、

「オレは法律学の専門家だ!そのオレが、竹田は法律学的には素人だと判定しているんだから素人だ!」

ということに過ぎない。

 

賢明な読者ならもうおわかりであろう。2chなどで日々繰り広げられている、「認定」という名の「レッテル貼り合戦」と同じである。特に「ネトウヨ認定」の発言がいかに多いことか。こういう「レッテル貼り行為」の前提に、

 

・オレ、他人にレッテルを貼ることができる「有能者」、あいつ、レッテルを貼られても仕方がない「無能者」

 

という「根拠のない見下し構造」があることと、全く同一であると痛感する次第である。すなわち、2点目である。

 

2 こういう「レッテルの貼り合い」が常態化することで、「自分:エリート/他者:思考能力のない他者」という二分法が、根拠なしにできてしまう結果、「根拠もなく互いが互いを見下し合う」という不毛な状況を引き起こしやすいということだ。たとえば例のyukichi氏は、

 

 

>自分が広報の担当者なら、きちんと編集しますけどね。

と明言しながら、私が

と聞き返しても、具体的には全くお答えになって下さらない(笑)。あまつさえ、以下のような「茶化し」は1.5人前である(苦笑)。

いやあ、「具体的に、どういう編集になるの?」と聞いているのに全く答えられず、上記のような皮肉だけは言えるという点に、

・ツイッターは「バカ発見器」である

という命題に関する限りなくアレな証拠が現れている、と思うのは私だけではないだろう。「十分な文章スキルを持っていない一般の人」とは誰のことなのだろうか(笑)。

 

少なくとも、私は自分のことを「一般人」だと思っている。だからこそ、その一般人が、必死に自力で考えることで、従来は当たり前だとされてきたことに疑義が生じうるのではないか?という問題意識でこのブログを始めたし、今でも続けているつもりだ。だからこそ、このブログで他者を批判するときは、その「根拠」に、こだわりすぎるほどこだわってきた。そこに「権威」を差し挟んだ部分があるとすれば、

 

・論理的な議論をするときは、基本的な言葉は自分で定義できるという担保が必要不可欠でしょ?その程度のことは大学で学びませんでしたか?

 

という発言くらいなものである。しかし、今考え直すと、大学でそんなことを学んでいなくても、基本的な言葉を自分で定義できる人間はいるし、大学を出ていても、基本的な言葉を自分で定義できない人がごまんといるということをいろいろな場で学んだ。すなわち、今では、「大卒」という学歴が、ほぼ何の能力も担保しないのだなと嘆息することぐらいである。

 

さて。

>専門外の事項については,専門家の「○○大学教授」というような肩書きに付着する権威によって発言の信頼性を判断する人が多いだろうし,そのことは批判されるべき態度でも何でもない。

などと宣っていたlawkus氏は、最近こんなRT(引用)をしているようだ。

「前者」、すなわち「雑魚」とされているのは、「精神科の方から来ました」という人のことか。だとすれば、先月の朝生に出ていた香山リカ氏のことか?

 

・・・オイオイ、香山リカ氏は、アレでも立教大学教授だぞ(笑)。ありがたーく、発言を拝承しなければならない立場のお方であらせられるのではないか?立教大学教授にふさわしくないというのであれば、立教大学に悪態つくぐらいのことはしないのかねえ??

 

>専門外の事項については,専門家の「○○大学教授」というような肩書きに付着する権威によって発言の信頼性を判断する人が多いだろうし,そのことは批判されるべき態度でも何でもない。

と明言したlawkus氏は、どうやら人格、または思考が分裂しているようだ。どおりで今、彼は札幌市で弁護士をしているわけだ。私の経験上、札幌市の弁護士には、こういう分裂気質の人が非常に多い(笑)。普段は弱者の味方面をしておきながら、ニラミがきく筋からの圧力にはいとも簡単に屈する。私の知っている限り、札幌の弁護士には、そういうアレな人が非常に多い。きっとlawkus氏には、そういう札幌の弁護士の水がよく合うのだろう。十分に羽を伸ばすといい。

 

 

 

 


 

ちなみに、厳密に言えば、司法修習生、あるいは弁護士や検事、裁判官であっても、法律学に関して、「これはこうだ!」と断言できることはそうは多くはない。国籍離脱の自由に関しても、「司法試験に合格するためにはこれが『通説』だと覚えなければならない」という範囲において「常識」であるだけの話で、今後起こりうるさまざまな訴訟や、その訴訟に応じて下されるさまざまな判決によっては、その「通説」がひっくり返ることは、可能性として十分にありうる。例えば最近の日の丸・君が代裁判における、学習指導要領の扱いなどがいい例だ。従来は「大綱的基準説」が『通説』とされていたようだが、昨今の日の丸・君が代裁判においては、

「学習指導要領が大綱的基準であっても、それに基づく職務命令が憲法違反だとは言えない」

という趣旨の判決ばかりである。これは、実質的には、学習指導要領は大綱的基準などではなく、明確に法的拘束力を持つもの、という解釈に変わりつつあるということである。

 

権威主義者、あるいは「無邪気な共産主義者」は、こういう「現実の変化」に対してきわめて鈍感である。というかひたすら無視を決め込み、なかったことにしようと必死である。だからこそ、自らを「一般人」と思う人間こそが、自分の知りうる範囲の情報を集め、できるだけごまかさずに考えようという姿勢が必要である。そうしてできた「論理武装(理論武装じゃないよ、念のため)」があれば、何でも上から目線の、口だけ「無邪気な共産主義者」を冷静にこき下ろせる(笑)のである。こういう技術こそが、今を生き抜く上できわめて重要なのだと考える。それが、現時点での、このブログのタイトルの意味である。

 

あ、「自分で考える」って、↓こういう意味じゃないんで。誤解なきように(笑)。このtogetterがおもしろすぎるのでご紹介。http://togetter.com/li/252029

 

 

みんなの党、松田公太ね。



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